柳芳 (唐)

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柳 芳(りゅう ほう、生没年不詳)は、唐代歴史家官僚は仲敷。本貫蒲州河東県[1]

太子文学の柳彦昭の子として生まれた。西魏の中書侍郎の柳虯の末裔にあたる。開元末年、進士に及第した。永寧県尉から直史館をつとめた。姚汝能の『安禄山事迹』には「偽官」として追放処分となったと記されており、安史の乱の際に安禄山に降ったことがその後の経歴に影響を与えた可能性がある[2]粛宗の命により、同僚の韋述とともに呉兢の総裁する『国史』の編纂事業に参加した。韋述が死去したため、柳芳が著作を引き継ぎ、高祖李淵の代から乾元年間にいたる『国史』130巻を完成させた。しかし天宝年間以降の叙述に欠けたところが多く、その評価は低かった。上元年間、柳芳は事件に連座して黔州に左遷されると、巫州に流されていた宦官高力士と出会い、開元・天宝年間の時政の事を聞き取った。『国史』はすでに完成していて、改めることができなかったため、別に『唐暦』40巻を編纂し、高力士の伝えた歴史を叙述した。拾遺・補闕・員外郎を歴任し、いずれも史官の任にあった。右司郎中・集賢院学士の位に終わった[3][1]

子に柳登柳冕があった[3][1]

備考

『唐暦』は日本の平安時代初めには日本に伝来しており、『日本国見在書目録』にもその名が見られる。また、平安・鎌倉期の『日本書紀』の研究においては、大宝2年(702年)の遣唐使が国号を「倭」から「日本」に改めたとする中国側の典拠として『唐暦』が用いられ、『日本書紀私記』や『釈日本紀』には『唐暦』からの引用が載せられている。また、これらの書籍からは当時の日本人が『唐暦』を中国史書における「日本」国号が記された最古のものと認識していたことが分かる[4]

脚注

伝記資料

参考文献

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