柴田義董
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備前国邑久郡尻海字奥谷(現在の岡山県瀬戸内市邑久地区)で廻船業を営む奥屋十兵衛慰徳の子として生まれる。尻海は錦海湾の湾口に位置する古くからの港町で、江戸時代には備前米の積出港として栄え、廻船問屋が軒を連ねていた。父は同郡本庄村の出身で、柴田氏を継ぎ、後に岡山京橋を独力で架けたと伝えられるほどの富豪だった。
幼少から呉春に画法を学び、富小路四条北に居を構えている。若くして四条派の画法を究め、人物・花鳥・走獣など幅広い画域を誇ったが、特に人物画を得意とした。洛中でも「花鳥は景文、山水は豊彦、人物は義董」と評された。同じ岡山出身の岡本豊彦が、呉春の作品全てを模して自作の参考にしたと伝えられるのに対し、義董は記憶力が抜群で粉本を用いず、古画の写しなども少しも蓄えなかったと記されており(『古画備考』田中千春話)、早熟の天才型だったと思われる。
京都を本拠地とする一方、故郷の岡山でも活躍し多くの作品が残る。40歳で死去し、下京の長講堂に葬られたとされるが、現在は確認できない。門弟に子で岡本豊彦に師事した柴田義峰、白神皞々、小野雲鵬、大原呑舟、片山信成などで、倉敷周辺出身者が多い。他に鳥取藩家老の陪臣だった青木図書がおり、そこから菅盛南、菅楯彦と画系が続いている。
代表作
| 作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 蓮台寺障壁画 | 約50面 | 蓮台寺 | 1809年(文化6年)頃 | 内訳は「牡丹に唐獅子」(板地著色、杉戸12面)などで、同作は倉敷市指定文化財[2]。 | |||
| 群仙図巻 | 紙本淡彩 | 1巻 | 45.2x1392.2 | 岡山県立美術館寄託[3] | 1811年(文化8年) | ||
| 西園雅集図 | 紙本淡彩金銀砂子 | 襖4面 | 172.3x112.0(各) | 岡山県立美術館[4][3] | 1811年(文化8年)頃 | ||
| 南天図 | 紙本著色 | 1面 | 宮津市・智源寺 | 1811年(文化8年)頃 | 款記「義董」/「義董」朱文方印 | 本堂天井画20面のうちの1つ[5]。 | |
| 唐人物図屏風 | 絹本著色 | 六曲一双押絵貼 | 127.1x52.5(各) | 岡山県立美術館[6][3] | |||
| 猿図 | 絹本墨画淡彩 | 1幅 | 岡山県立美術館[7] | ||||
| 鹿図屏風(左隻右隻) | 紙本金地著色 | 六曲一双 | 東京国立博物館 | ||||
| 山水人物図屏風 | 紙本淡彩 | 六曲一双 | 128.4x310.2(各) | 養父市・山路寺[8] | |||