栗沢勇治
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| 栗沢勇治 くりさわ ゆうじ | |
|---|---|
| 生年月日 | 1904年9月19日 |
| 出生地 |
(現・岩手県釜石市) |
| 没年月日 | 1976年1月31日(71歳没) |
| 出身校 | 栗橋尋常高等小学校卒業 |
| 前職 | 釜石製鉄所勤務 |
| 所属政党 |
(日本社会党[注釈 1]→) 無所属 |
| 称号 | 従五位 |
| 当選回数 | 2回 |
| 在任期間 | 1967年5月18日 - 1975年5月17日 |
| 選挙区 |
(上閉伊選挙区→) 釜石選挙区 |
| 当選回数 | 3回 |
| 在任期間 | 1955年 - 1967年4月18日 |
甲子村会議員 | |
| 在任期間 | 1942年 - 不明 |
栗沢 勇治(栗澤、くりさわ ゆうじ、1904年〈明治37年〉9月19日[1][2][3] - 1976年〈昭和51年〉1月31日[1])は、日本の政治家。釜石市長(2期)。位階は従五位。
1967年釜石市長選挙
岩手県上閉伊郡栗橋村(現・釜石市)に生まれる[4]。栗橋尋常高等小学校卒[2][4]。炭焼きから身を興し、土木作業員を経て[4]、1928年(昭和3年)釜石製鉄所に入る[1][4]。1942年(昭和17年)釜石市の隣の甲子村会議員となる[1][2][4]。戦後、釜石製鉄所の労働組合結成に参加し、副組合長から組合長になる[1][4]。1955年(昭和30年)、上閉伊選挙区から日本社会党[注釈 1]公認で岩手県議会議員選挙に立候補し、当選する[1][4][6]。1963年(昭和38年)の選挙では釜石選挙区から立候補して当選した[3]。県議は3期務める[2]。
1967年(昭和42年)4月18日に県議を辞職した[7]。同年、釜石市長選挙に民社党推薦で立候補し、現職の鈴木東民と共産党公認の新人を破って初当選を果たした[8][9][10]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts)
| 候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 栗沢勇治 | 62 | 無所属 | 新 | 21,398票 | 53.89% | 民社推薦 |
| 鈴木東民 | 71 | 無所属 | 現 | 14,793票 | 37.26% | - |
| 加茂久一郎 | 75 | 日本共産党 | 新 | 3,515票 | 8.85% | - |
同年5月18日に就任した[2]。
1971年釜石市長選挙
1971年(昭和46年)の選挙では、無所属と前回とは別の共産党公認の新人との争いとなったが、これを破って再選を果たした[10]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts)
| 候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 栗沢勇治 | 66 | 無所属 | 現 | 21,090票 | 58.38% | - |
| 小泉日出雄 | 54 | 無所属 | 新 | 11,682票 | 32.34% | - |
| 柏崎ともよ | 41 | 日本共産党 | 新 | 3,351票 | 9.28% | - |
1975年(昭和50年)5月17日に退任した[2]。翌1976年(昭和51年)1月31日に死去[1]、市は準市民葬を挙行した[1][4]。
市長として
市長就任当初は2億5千万円の財政赤字で、在任中に解消を実現させた。2期目に「福祉都市」宣言を行い、市内の社会福祉施設を充実させ、保健医療対策にも力を注ぎ、4歳児の発達検査を実施した[2]。