桂米喬 (2代目)
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| 2代目 | |
| 本名 | 井上 新二郎 |
|---|---|
| 別名 | 「鰐皮」 |
| 生年月日 | 1860年 |
| 没年月日 | 1904年5月25日 |
| 出身地 | |
| 師匠 | 初代桂文我 2代桂文團治 |
| 弟子 | 桂小米喬 |
| 名跡 | 桂文蝶 初代桂米紫 桂正鶴 2代目桂米喬 |
| 活動期間 | ? - 1904年 |
| 活動内容 | 上方落語 珍芸 |
| 家族 | 桂小米喬(実子) |
| 所属 | 三友派 |
| 主な作品 | |
| 『いかけ屋』 | |
2代目 桂 米喬(かつら べいきょう、1860年(万延元年) - 1904年5月25日[1])は、上方落語の落語家(上方噺家)。本名: 井上新二郎(辮次郎、辮二郎とも)[要出典][1]。享年45。
古物商から噺家になったという[要出典]。
初め、初代桂文我門下で文蝶を名乗る[1]。1885年、2代桂文團治門下に移り、初代桂米紫を経て、1892年に2代目桂米喬を襲名[1]。1886年中頃には正鶴を名乗ったこともあるらしい[要出典]。
21歳の時、天然痘に罹り、あばた面であったため「鰐皮」とあだ名された[1]。十八番は『鋳掛屋(いかけ屋)』だったが、噺が終わると立ち上がり、三下がりの『逢いたさ』を踊り、ぶら下がっている電球を舐めるなどしたといい(子息の小米喬による回想「亡父の事」による)、三友派の中で人気を博した[1]。
初代桂春団治が芸の目標としたほどの爆笑派で、春団治は一時3代目米喬の襲名をもくろんでいたが実現しなかった[要出典]。
死去の前日に3軒の寄席を掛け持ちし、『辻八掛』『崇禅寺馬場』『小倉船』を演じたのが最後で、その翌日、脳溢血で若くして亡くなった。通説では享年45、ただし実子の桂小米喬(後の喜劇役者・曽我廼家満月)によると43歳だったという。[要出典]