桂文之助
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江戸4代目
| 4代目 | |
| 本名 | 桂 仙之助 |
|---|---|
| 生年月日 | 1855年9月24日 |
| 没年月日 | 1922年10月1日(67歳没) |
| 出身地 | |
| 師匠 | 6代目桂文治 |
| 名跡 | 1. 桂文仙 2. 桂文吉 3. 4代目桂文之助( - 1917年) |
| 活動期間 | ? - 1917年 |
| 活動内容 | 上方落語 |
| 家族 | 江戸4代目桂文治(父) 6代目桂文治(兄) |
| 所属 | 三遊派 |
4代目 桂 文之助(かつら ぶんのすけ、1855年9月24日(安政2年8月14日) - 1922年10月1日)は、明治から大正にかけての落語家[2]。本名: 桂 仙之助[2]。
『文之助系図』には、江戸4代目桂文治(渡邊平三郎)の三男で、6代目桂文治の実弟と記されている[2]。『文之助系図』には当初の高座名が「文仙」または「文吉」であったとある[2]。その後、4代目文之助を襲名した[2]。「文之助」の名乗りの最古の記録は1876年8月の『落語業名鑑』であると『古今東西落語家事典』では推測している[2]。落語家としては大成しなかったが、筆記にすぐれたため、長期にわたり三遊派の書記や税務などを務めていた[2]。1917年設立の演芸会社でも高座に出ず事務員をした[2]。このほか、『古今落語家系統表』(1909年)と『古今落語系圖一覽表』(1916年)を著し(この2冊を『文之助系図』と総称する)、貴重な資料となっている[2]。
江戸5代目
| 5代目 | |
| 本名 | 桂 東三 |
|---|---|
| 生年月日 | 不詳年 |
| 没年月日 | 不詳年 |
| 出身地 | |
| 師匠 | 3代目三遊亭圓橘 |
| 名跡 | 1. 三遊亭橘三(不詳) 2. 花の家蝶六(? - 1917年) 3. 翁家寿々馬(1917年 - 1922年) 4. 5代目桂文之助(1922年 - ?) |
| 活動内容 | 上方落語 幇間 |
| 家族 | 6代目桂文治(父) |
| 所属 | 柳派 |
5代目 桂 文之助(かつら ぶんのすけ、生没年不詳)は、明治から大正にかけての落語家[1]。本名: 桂 東三[1]。
6代目桂文治の実子[1]。神田の商店での年季奉公終了後に3代目三遊亭圓橘に入門し、三遊亭橘三を名乗る[1]。大正改元(1912年)前後に、北海道の小樽で、花の家蝶六と名乗る幇間となる[1]。
1917年、翁家寿々馬の名で柳派に加わり、落語界に復帰した[1]。1920年6月、鈴本演芸場上席で真打格の披露をおこなう[要出典]。1922年、叔父に当たる4代目文之助の死後、その名を継いだ[1]。
上方
| 2代目 | |
| 本名 | 山田 萬次郎 |
|---|---|
| 生年月日 | 1859年 |
| 没年月日 | 1930年4月16日 |
| 出身地 | (現・大阪府大阪市西区) |
| 師匠 | 初代桂文團治 初代桂文之助 |
| 弟子 | 文の家春之助 初代桂春輔 文の家恋しく(後に漫才に転じ文の家恋しく・たより) |
| 名跡 | 1.初代桂小團治(1887年 - ) 2.桂桂馬 3.艶文亭かしく(または「文の家かしく」「桂かしく」、 - 1884年) 4.桂小團治(1884年 - ) 5.艶文亭かしく 6.2代目桂文之助(1900年 - ) 7.文の家文之助( - 1920年) |
| 活動期間 | 1877年 - 1920年 |
| 活動内容 | 上方落語 新作落語 |
| 家族 | 3代目笑福亭福松(実子) |
| 主な作品 | |
| 『動物園』 『指南書』 『象の足跡』 『電話の散財』 『地震加藤』 | |
2代目 桂 文之助(かつら ぶんのすけ、1859年(安政6年、日付未詳) - 1930年4月16日)は、明治から昭和にかけての上方落語の落語家[5][注釈 1]。本名: 山田 萬太郎[5][注釈 2]。
経歴
後述する「文の助茶屋」ウェブサイトによると、大坂の米問屋に生まれる[6]。1981年刊行の『京の文学碑めぐり』(京都新聞社)には、初代中村鴈治郎の隣家に生まれ、寺子屋でも同窓だったという記述がある[7]。橋本礼一は、鴈治郎を会長として町内出身者が結成した「新町会」評議員に文之助が含まれることから、文之助も鴈治郎と同じ大坂・新町(現・西区)出身だったのではないかと述べている[7]。
初代桂文團治に入門して初代桂小團治を名乗る[5][注釈 3]。その後、初代桂米團治(のちの7代目桂文治)門下に移り(『古今東西落語家事典』は「預りカ? 」とも記す)、桂粉團治に改名した[5][注釈 4]。さらに初代桂文之助(2世曽呂利新左衛門)の門人となり、桂桂馬、艶文亭かしく(または「文の家かしく」「桂かしく」)と名を変えた[5]。1884年ごろに再度小團治、翌年、またもかしくを経て[要出典]、1900年6月に2代目桂文之助を襲名した[5][注釈 5]。襲名後には「文の(廼)家文之助」の名も用いている[5]。
後年は、主に京都の寄席・笑福亭で真打として活動した[要出典]。京都東山の高台寺に自身の扇子を奉納したことを契機に、1909年に境内の茶店を引き継いで「甘酒茶屋」(のちの「文の助茶屋」)を開く[6]。1920年に完全に引退して高台寺に引退興行の代わりに石碑を建てた[要出典]。以後は茶屋の亭主に専念し(いわゆる芸能人プロデュースビジネスの嚆矢と言われている[12]。現在も八坂上町に移転して営業)、悠々自適の余生を送った。「文の助茶屋」では主に甘酒を売っていたという[5]。墓所は京都市東山区の圓徳院[要出典]。
人物
『立ち切れ』と『辻占』が得意演目だった[5]。多くの新作落語も手がけ、『動物園』や『指南書』『象の足跡』『電話の散財』(2代目林家染丸がのちに改作し[13]、得意演目とした[14])を創作した[5]。
SPレコードも残されており、『食道楽』『壺の見舞』『満員電車』『犬のまじない』が収録されている[5][7][注釈 6]。
酒も嗜まない品行方正で真面目な人物だったという[5]。
2代目文の家かしく→3代目笑福亭福松は実子で、別の子息が「文の助茶屋」を継いだ[5]。
弟子には文の家春之助、初代桂春輔、文の家恋しく(後に漫才に転じ文の家恋しく・たより)がいた[要出典]。
初代森乃福郎は、師匠が前記の3代目笑福亭福松(2代目文の家かしく)であったことから、3代目桂文之助の承継を望んでいた[要出典]。実際に1987年の襲名がその前年から計画されたが(6代目笑福亭松鶴の「笑福亭松翁」・5代目笑福亭松鶴の「7代目笑福亭松鶴」襲名と同時)、6代目松鶴が1986年9月に死去したため実現しなかった[15]。