桝嘉一
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元はテニス選手で旧制同志社中学校、同志社高等商業学校を経て、明治大学に進む。東京六大学リーグ通算88試合出場、296打数70安打、打率.236、0本塁打、34打点。1936年に名古屋軍に入団。
1937年と1943年には監督 、1941年から1942年までは助監督も務めた(すべて選手兼任)。1944年は監督業を三宅大輔に譲って選手専任となるが、出場機会は無く、同年限りで現役引退。戦後、一時期審判員を務め、その後、社会人日本鋼管の野球部監督に就任(プロ野球人名事典1999)し、1981年12月18日、死去。満73歳没。
また、職業野球黎明期は登録選手の人数の関連で監督が背番号「30」を背負うことが多かったが、枡は昭和12年の1年限りながら、戦前の職業野球で唯一、背番号「50」を背負っていた。