桝形城
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甘粕長重(景持)が築城し、本拠としたと伝承される桝形城[1][2][3][4]。
桝形城の説明版には、以下の様に書かれている。
桝形城は、戦国時代では比較的規模の大きい城であり、城主は、長尾・上杉氏に仕えた武将であった宇佐美駿河守(うさみするがのかみ)と甘糟近江守(あまかすおうみのかみ)といわれている。
城址は、海抜三00米の桝形山の地形を利用した典型的な山城である。本丸、二の丸、北出丸(古城)、その間につくられた空堀の跡、それに殿様清水が今も山の中腹に湧き出ている。
館址は、山麓の大積高鳥町の集落付近と考えられ、蔵屋敷、馬場、勘定、堀切などの場所が伝えられている。 — 『桝形城(灰毛城)址』長岡市説明版
地勢 [5]
桝形城は、日本海より約15キロ内陸、長岡市飯塚と長岡市大積高鳥町と境を接する半独立峰の山城である。柏崎市より長岡市に通ずる国道八号線と渋海川との中間に位置する。標高200メートル程の山並みが柏崎市北条から長岡市関原町まで続いている(越路丘陵)。その内の主峰に桝形城がある。
桝形城の西北、越後線(柏崎・新潟間)にそって赤田城、金山城(西山町、標高247M)、二田城、高内城(西山町、標高246M)、小木の城(出雲埼町、標高341M)が(西山山系)、更に越後線の西には標高120Mから130M程の山並(荒浜砂丘)が続く。この山並の中に滝谷城、鎌田城(西山町、標高133M)、椎谷灯台(柏崎市)、西山油田などがある。
桝形城の東に渋海川・信濃川が流れ、水田地帯となっている。信濃川の東に高峰鬼蔵山(標高618M)、風谷山(標高522M)、三ノ峠山(標高468M)、南蠻山(標高545M)、大峯山(標高566M)、金倉山(標高581M)が続き、山麓に栖吉城、柿城(長岡市)悠久山公園、旧成願寺温泉などがある。
桝形城の南に信越本線と三本の大きな谷がある。一本は鯖石川に沿った柏崎市高柳町、一本は渋海川に沿った長岡市小国町、一本は信濃川に沿った小千谷市である。
鯖石川と渋海川の境に八石山(標高517M)、石川峠(標高352M)、高耕地山(標高340M)、薬師岳(標高382M)が、渋海川と信濃川との境に薬師峠(標高267M)、桐沢峠(標高312M)、時水城、小国峠(標高324M)、向山(標高338M)などがある。
縄張り [6]
本丸跡の西は切り立った絶壁で険しい。しかし、三本の尾根は何れも緩やかで、軍事的には弱かったように思える。
本丸跡(ア)は南北80M、東西広い所で18M、狭い所で10Mである。北端は1M下に(イ)長さ14M、幅2~4Mが付属している。
本丸跡東南下8Mに空堀(A)がある。(ア)南西下8Mに(ウ)長さ53M、幅14Mの、(ア)東下8Mに(エ)長さ58M、幅11Mの腰曲輪が本丸を巻いている。(ウ)(A)の南に(オ)長さ55M、幅11Mが、その下2Mに二の丸(カ)東西66M、南北33Mがある。実に規模が大きい。(カ)南下三Mに( キ)東西25M、南北13Mがあり、今日ここに管理棟、公衆収所がある。(キ)の東に、長さ43M、幅6から12Mの、(キ)の北に長さ61M、幅3から8Mの腰曲輪が二の丸の南西部分を巻いている。
(キ)の南下3Mに長さ20M、幅14から17Mの、幅6Mの道を挟んで高さ2M、長さ2OM、幅7Mの削平地がある。この南下2Mに(ク)東西35M、南北31Mの削平地がある。今日、駐単車(三の丸)となっている。桝形山へ登る人は容易に自動車でここまで企ることが出来る。
(ク)南下3Mに長さ17M、幅13Mの削平地があり、ここより急な階段を81M下ると、「殿様清水」がある。これが桝形城の水源であった。この外、本丸西下崖にも水源がある。(ク)南下3Mの削平地の東下2Mに長さ20M、幅13Mの、その下3Mに長さ5M、幅4Mの、その下4Mに長さ5M、幅3Mの、その下2Mに長さ4M、幅3Mの削平地が階段状にあり、ここより下方は絶壁となっている。
(ク)より幅2Mの道を36M南へ行くと、曲輪(ケ)がある。この途中に土塁(M)がある。(ケ)は長さ49M、幅25Mで広い。
(ケ)の西下、登山道の西下15Mに長さ20M、幅16Mの、その下10Mに長さ6M、幅3Mの削平地がある。(ケ)の南に長さ28M、幅7Mの旧道が、その下3Mに長さ13M、幅7Mの削平地がある。この南上3Mに長さ40M、幅9から11Mの削平地がある。ここより緩やかな尾根を64M下ると長さ29M、幅17Mの削平地が、その南、道を挟んで長さ70M、幅18から28Mの大きな曲輪(コ)がある。(コ)より南は険しい崖になっている。(コ)の西側を巻いている自動車道を下ると、県道柏崎越路線「牛池」に出る。この大手の尾根には本丸跡南下の(A)以外、空堀は見られない。
本丸跡より緩やかな尾根を北に下り、(イ)北下6Mに空堀(B)があり、その北に(サ)長さ17M、幅3M、(シ)長さ26M、幅2Mがある。(シ)の北下3Mに空堀(C)が、その北上1Mに(ス)長さ7M、幅3Mがある。(ス)から幅2.5Mの尾根を北へ4OM行くと、古城と呼ばれている曲綸(セ)長さ2OM、幅19Mがある。
(セ)を中心に曲輪・削平地群が構築されている。(セ)西下2Mに(ソ)長さ29M、幅15Mがある。(ソ)西端に高さ1M、長さ8M、幅3.5Mの土盛り部分がある。(ソ)南下6Mに長さ31M、幅3.5Mの、(ソ)北下3Mに長さ14M、幅4Mの、その下10Mに長さ23M、幅10Mの削平地がある。(ソ)西下5Mに空堀(D)がある。(D)の南下20Mに長さ16M、幅4Mの、その下2Mに長さ31M、幅5Mの、その下3Mに長さ33M、幅5Mの、その下3Mに長さ28M、幅4Mの、その下2Mに長さ22M、幅5Mの、その下2Mに長さ34M、幅8Mの削平地が階段状に山麓へと続く。(D)の西に(タ)長さ19M、幅4Mの削平地があり、この下方に長さ45M、幅22Mの、その西に長さ27M、幅16Mの大きな削平地がある。ここより下方は尾根が谷に落ち込んでいる。
(セ)の北下1Mに長さ1OM、幅4Mの削平地が付属している。この下3.5Mに(チ)長さ21M、幅20Mがあり、その下7.5M空堀(E)がある。(チ)東下7Mに長さ18M、幅2Mの、その下6Mに長さ27M、幅4Mの削平地がある。(E)の北上1Mに長さ11M、幅4Mの橋台と思われるものが遺っている。この下1Mに(ツ)長さ100M、幅6Mから18M(ツ)下2Mに(テ)長さ42M、幅12Mの削平地がある。
(テ)西下12Mに長さ14M、幅9Mの、その下3Mに長さ6M、幅4Mの削平地がある。(テ)より緩やかな尾根が北へと延びている。しかし空堀はみられない。
本丸跡から東(飯塚部落へ通ずる道)に下る、東下8Mに(エ)があり、その下4Mに腰曲輪(卜)長さ78M、幅6から13Mがある。(ト)の南、(カ)の東下3Mに長さ16M、幅10Mの、その南に長さ22M、幅8Mの、その下4Mに長さ22M、幅10Mの、その北下1Mに長さ29M、幅15Mの削平地が入組んでいる。ここより幅5Mの道を挟んで南に(ナ)長さ21M、幅18Mがある。(ナ)の東下2Mに長さ15M、幅9Mの、(ナ)の南下7.5Mに長さ17M、幅11Mの、その東下6Mに長さ26M、幅23Mの削平地がある。
(卜)下6Mに(二)長さ43M、幅43Mの大きな曲輪が、その下2Mに長さ32M、幅6Mの、その下6Mに長さ16M、幅9Mの削平地がある。(ト)下9Mに緩やかに傾斜している(ヌ)の南、道を挟んで長さ19M、幅9Mの、その下に2Mに長さ19M、幅10Mの、その下8Mに長さ20M、幅5Mの削平地がある。
(ヌ)の東下5Mに空堀(F)が、その東に空堀(G)がある。(ネ)は、長さ26M、幅21M、その南下10Mに長さ25M、幅5Mの、その下2Mに長さ10M、幅3Mの、その下2Mに長さ14M、幅4Mの、その下3Mに長さ15M、幅5Mの削り平地がある。(F)の北下方に(ハ)長さ26M、幅24Mがあり、その東下7M堅堀(H)がある。(ハ)下に(ヒ)長さ35M、幅17Mがあり、やや煩糾している。(ヒ)の西方6M下に空堀(Ⅰ)が、その西に(フ)長さ40M、幅9Mの削平地がある。この(ヒ)(Ⅰ)(フ)の北下は崖となっている。
(G)の東上6Mに(へ)長さ34M、幅10Mの、その上に1Mに(ホ)長さ30M、幅21Mの削平地がある。この尾根をゆっくり下ると飯塚部落に至る。

【写真提供:甘粕健(たけし)氏】

【写真提供:甘粕健(たけし)氏】
居館[7]
城主の居住した館は、東麓の大積高鳥町地内にあったと推測されるが、これを示す意向や地名は知られていない。わずかに「馬場」「御蔵屋敷」「鍛冶屋敷」など、城に関連した俗称地名が残されている。
アクセス
- JR越後岩塚駅から徒歩60分
- 関越道長岡ICから約30分
- JR長岡駅大手口バス停3番線から小国車庫行きに乗車、「飯塚」下車、徒歩50分
- 関越道長岡南越路スマートICより25分
