森保祐昌
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広島県三谿郡田幸村(現在の三次市)出身[1][3][6][7][10][11]。森保茂助の長男[12]。小学校を卒業後、「尚一層学問を修めて一度は東都に遊学し、将来は法曹界にて身を立てよう」との希望を抱き、父に向い度々嘆願したが父は昔気質の一徹にて「些少なりとも家に伝わる財産を我が代に至って減じたとあっては先祖に対して申し訳なし。無用な望を起すよりは身に相応の家業を励むべし」と聞き入れなかった[9]。
助三郎は結局「独力にて成功しよう」と決心し、当時荒蕪の儘に放棄してあった山林三反歩を開墾して桑を植え付け、その葉を売却し、又は自ら養蚕してその利益を蓄えつつ独学にて勉強を続け1902年(明治35年)に教員検定試験を受けて尋常科正教員の免状を得た[9]。同地某小学校に奉職して、教鞭を執る傍ら早稲田大学の校外生となり、講義録に就て研究を続けた[9]。
弟の良一が師範学校を卒業して幾許かの俸給を得るに至るのを待ち、かねてより貯蓄していた約400円を弟に渡して自己不在中両親扶養の料とする[9]。直ちに笈を負って上京する[9]。1905年(明治38年)、早稲田大学専門部法律科を卒業する[6][13][14]。卒業後2年間は牛込区砂土原町私立桜井小学校に教鞭を執り、傍ら二松學舍に入塾して漢学を修める[9]。
1908年(明治41年)、弁護士試験に合格[3][11][12]。江木衷法学博士に就き、法律を研究する[1][11]。1909年(明治42年)、法律事務所を開く[11]。弁護士の業務に従事する[2]。1911年(明治44年)ごろ広島に帰り、弁護士を開業する[6]。
1915年(大正4年)7月、僧籍に入り助三郎を祐昌と改名する[6]。1917年(大正6年)6月、広島市会議員に当選[6]、同副議長、同議長[8]、広島県会議員、同市部会議長に選ばれた[2]。
1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。立憲民政党に所属し[2][7]、同党広島支部常任顧問である[12]。1940年(昭和15年)1月より1941年(昭和16年)3月まで広島市顧問[6]。1945年(昭和20年)8月、広島市への原子爆弾投下により被爆する[6]。
