早速整爾
日本の実業家、政治家
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早速 整爾(はやみ せいじ、1868年11月15日〈明治元年10月2日[1]〉- 1926年〈大正15年〉9月13日)は、明治・大正期の日本の実業家、政治家。初代大蔵政務次官、農林大臣及び大蔵大臣。
| 早速 整爾 はやみ せいじ | |
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| 生年月日 |
1868年11月15日 (明治元年10月2日) |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1926年9月13日(57歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 |
東京専門学校政治経済英学科 (現:早稲田大学) |
| 所属政党 |
(無所属→) (無名倶楽部→) (又新会→) (中正会→) 憲政会 |
| 称号 |
従三位 勲一等瑞宝章 |
| 配偶者 | 早速リウ |
| 親族 | 早速勝三(養父) |
| 内閣 | 第1次若槻内閣 |
| 在任期間 | 1926年6月3日 - 1926年9月13日 |
| 内閣 |
加藤高明内閣 第1次若槻内閣 |
| 在任期間 | 1925年8月2日 - 1926年6月3日 |
| 在任期間 | 1915年12月26日 - 1917年1月25日 |
| 衆議院議長 | 島田三郎 |
| 選挙区 |
(広島県広島市区→) (広島県郡部区→) (広島県広島市区→) 広島県第1区 |
| 当選回数 | 8回 |
| 在任期間 |
1902年8月10日 - 1902年12月28日 1904年3月1日 - 1908年3月27日 1909年7月28日 - 1926年9月13日 |
人物
安芸国沼田郡新庄村(現:広島市西区新庄町)出身。出生名は中山米吉。
中山源蔵の二男[1]として生まれ苦学して、旧制広島中学を経て1887年(明治20年)に東京専門学校政治経済英学科(現:早稲田大学)を卒業。前年、秀才で通りながら遊び過ぎて卒業試験に失敗した事から「爾(なんじ)を整(ととの)へよ」と自省し整爾と改名し、中山整爾となった。卒業前に埼玉英和学校校長代理兼教頭を務めた。
1889年(明治22年)、芸備日日新聞社主の早速勝三の養子となり、早速整爾に名を改め、同年、社長兼主筆として新聞を経営、優秀な頭脳と速筆で活躍。
広島市会議員、同議長を経て[2]、1896年(明治29年)に広島県会議員、1902年(明治35年)に衆議院議員初当選。引き続き県会議員を兼ね、また広島商工会議所会頭や地元有力企業の重役として名を連らねていたため、地方財界の代弁者たる小会派に属さざるを得なかった(当時、大政党は政府と結びつく大資本の代弁者だった)。同郷三原市出身で法曹の雄として著名な花井卓蔵代議士らと共に政界革新運動に尽力。
1915年(大正4年)、人格識見を買われ海軍参政官、続いて第2次大隈内閣の際の衆議院副議長。翌1916年憲政会の結成に参加、ようやく大政党入りすると財政通、経済通として益々頭角を現し1924年(大正13年)に鉄道次官、次いで同年8月、憲政会の加藤高明内閣の時に政務次官制度が発足すると初代大蔵政務次官に就任。
1925年(大正14年)、加藤内閣の農林大臣、更に翌1926年(大正15年)の若槻内閣で農林大臣、次いで大蔵大臣となり得意の財政経済に腕を振るう事を期待されたが、間もなく病にかかり入院、3ヶ月後世を去った。満57歳没。死に関する一説には平将門の首塚の祟りではとする者も在する。従三位勲一等瑞宝章が贈られた。
1929年(昭和4年)、広島市南区の比治山公園に銅像が建てられたが、太平洋戦争(大東亜戦争)時の資源回収で取り除かれている。
栄典
- 位階
- 勲章等
伝記
- 『早速整爾伝』(湊邦三編)私家版、1932