楊授

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楊 授(よう じゅ、生没年不詳)は、唐代官僚は得符[1][2]本貫虢州弘農県[3]

楊嗣復の子として生まれた。大中9年(855年)、進士に及第した。節度使の従事を初任とし、入朝して鄠県県尉・集賢院校理となった。監察御史・殿中侍御史を歴任し、東台を分務した。司勲員外郎・洛陽県令・兵部員外郎を歴任した。李福が東都留守となると、楊授はその下で判官をつとめた。兵部郎中に転じ、吏部郎中から左諫議大夫給事中に任じられた。河南尹として出向した。盧携が宰相となると、楊授は召還されて工部侍郎に任じられた。黄巣長安を占領し、僖宗成都府に避難すると、楊授は戸部侍郎に任じられた。母の病のため、散位を求め、秘書監分司に転じた。僖宗が長安に帰還すると、楊授は兵部侍郎に任じられた。宰相に恨まれて、左散騎常侍・国子監祭酒に転じた。さらに太子賓客となった。昭宗に従って華州に下り、刑部尚書・太子少保に任じられた。のちに死去した。尚書左僕射の位を追贈された[1][2]

子の楊煚は字を公隠といい、諫議大夫となった[1][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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