楊嗣復

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楊 嗣復(よう しふく、783年 - 848年)は、唐代官僚政治家牛李の党争において牛党についた。は継之、または慶門[1][2]本貫虢州弘農県[3]

楊於陵の子として揚州で生まれた。7・8歳で文章を作ることができた。20歳のとき、進士に及第した。21歳で博学宏詞科に登第し、秘書省校書郎を初任とした。右拾遺に転じ、史館に宿直した。礼学に造詣が深かったことから、太常寺博士に転じた。元和10年(815年)、刑部員外郎に累進した。鄭余慶が詳定使となると、嗣復はその下で詳定判官をつとめ、礼部員外郎に転じた。元和13年(818年)、父が戸部侍郎の官にあったため、嗣復は父と同省にあるのはよろしくないと、他官に代わりたいと請願したが、憲宗に赦されなかった。二度異動して兵部郎中となった。長慶元年(821年)10月、庫部郎中・知制誥となり、中書舎人に任じられた[4][2]

嗣復は牛僧孺李宗閔とともに権徳輿の門生として官吏に推挙されており、情義で結ばれていた。長慶4年(824年)、牛僧孺が宰相となると、嗣復は検校礼部侍郎となった。宝暦元年(825年)2月、貢士68人を選抜し、のちに多くが高官に昇った。大和元年(827年)、戸部侍郎に任じられた。老病のため致仕した父を養いたいと、辞職を願い出たが、文宗に許可されなかった。大和4年(830年)、父が死去したため、嗣復は辞職して喪に服した。大和7年(833年)3月、尚書左丞として起用された。この年、李宗閔が宰相を退任し、李徳裕が政権に入った。7月、嗣復は検校礼部尚書梓州刺史・剣南東川節度観察等使として出された。大和9年(835年)、検校戸部尚書成都尹・剣南西川節度副大使・知節度事・観察処置等使に転じた[5][2]

開成2年(837年)10月、入朝して戸部侍郎となり、諸道塩鉄転運使を領知した。開成3年(838年)1月、同僚の李珏とともに本官のまま同中書門下平章事(宰相)となり、弘農県伯に封じられた[5][2]

開成4年(839年)、門下侍郎を加えられた[6][7]。開成5年(840年)、吏部尚書を兼ねた[8]。李徳裕が宰相となると、嗣復は湖南観察使として出された。会昌元年(841年)、武宗即位に先立って安王李溶を擁立しようとしたとして武宗に憎まれ、さらに潮州刺史に左遷された[6][9]

会昌6年(846年)、宣宗が即位すると、江州刺史に転じた。大中2年(848年)、嗣復は吏部尚書に任じられ、長安に召還される途中、岳州で病にかかり、死去した。享年は66。尚書左僕射の位を追贈された。は孝穆といった[10][11]

子に楊損楊授・楊技・楊拭・楊撝があった[10][11]

脚注

伝記資料

参考文献

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