盧携

From Wikipedia, the free encyclopedia

盧 携(ろ けい、生年不詳 - 881年)は、唐代官僚政治家は子升[1][2]本貫范陽郡涿県

盧求の子として生まれた。盧損の孫にあたる。大中9年(855年)、進士に及第し、集賢院校理に任じられ、節度使の幕府に出向して補佐した。咸通年間、入朝して右拾遺・殿中侍御史となり、員外郎・郎中長安県令・鄭州刺史を歴任した。召還されて諫議大夫に任じられた。乾符2年(875年)、本官のまま翰林学士をつとめ、中書舎人に任じられた。戸部侍郎・翰林学士承旨を加えられた。乾符5年(878年)、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となり、門下侍郎を加えられ、兵部尚書・弘文館大学士を兼ねた[1][2]

かつて王仙芝が河南で起兵したとき、盧携は宋威・斉克譲・曾袞らを将才ある人物として推挙して、招討使として任用させていた。宋威が尚君長を殺害すると、反乱軍はかえって団結し、勢力を拡大させた。朝廷が宰相の王鐸を荊南に駐屯させ、諸道都統としたことから、盧携はこれを喜ばなかった。このころ黄巣広州を陥落させ、天平軍節度使の地位を求めた。盧携は黄巣の請願を受け入れてはいけないと主張した。また盧携は南詔との和親を巡って、同じく宰相の鄭畋と論争し、憤激のあまり硯を地に投げつけた。このため盧携は宰相を罷免され、太子賓客・分司東都とされた[1][3]

乾符6年(879年)、高駢の大将の張麟がしきりに反乱軍を撃破した。盧携はもともと高駢と仲が良かったため、高駢を統帥として推挙していた。僖宗は高駢が功績を立てると、盧携を宰相に復帰させた。王鐸が防戦に失敗して、都統を罷免されると、高駢が代わって都統となった。これにより王鐸や鄭畋が任命していた潼関以東の諸将はみな交代させられた。盧携は内に田令孜と外に高駢を協力者として、朝廷の政権を掌握した。このころ盧携は中風を病んで、政権の事務は親しい官吏の楊温や李脩に決裁され、賄賂が横行した。黄巣の反乱軍が淮南を騒がし、張麟が殺害され、溵水で敗戦した。朝廷は震撼し、敗戦の罪は盧携に着せられた。広明元年12月(881年1月)、黄巣が潼関を陥落させると、盧携は宰相を罷免され、太子賓客に降格された。この夜、盧携は毒薬を仰いで自死した。黄巣が長安に入ると、盧携の棺は破壊され、その遺体は長安の市に磔にされた[4][5]

子の盧晏は天祐元年(904年)に河南県尉となったが、柳璨に殺害された[6][5]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI