楊損
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楊嗣復の子として生まれた。蔭官により藍田県尉となった。三度異動して京兆府司録参軍となり、入朝して殿中侍御史となった[1][2]。楊損の家は新昌里にあり、宰相の路巌の邸と隣接していた。路巌の邸の土地は狭く、楊損の広い厩と取り換えてほしいと求めてきたが、楊損は先祖伝来の土地を勝手に処分できないといって聞き入れなかった。路巌は楊損を憎んで、黔中の刑事事件を取り調べる使者として派遣した。翌年、楊損が長安に帰ると、戸部員外郎・洛陽県令に転じた。入朝して吏部員外郎となり、絳州刺史として出向した。路巌が宰相を退任すると、楊損は長安に召還されて給事中に任じられ、京兆尹に転じた。乾符5年(878年)、盧携が宰相となると、楊損は再び給事中となり、陝虢都防禦観察使として出された。ときに陝州では兵乱が起こり、前観察使の崔蕘は追放されていた。楊損が着任すると、乱の首謀者たちを殺しつくした。乾符6年(879年)、青州刺史・御史大夫・淄青節度使に転じた。この年、検校刑部尚書・鄆州刺史・天平軍節度使とされたが、鄆州に赴任しないうちに、青州で死去した[4][2]。