楊発

From Wikipedia, the free encyclopedia

楊 発(よう はつ、生没年不詳)は、唐代官僚は至之。本貫同州馮翊県

経歴

大和4年(830年)、進士に及第し、さらに書判抜萃科に登第した。校書郎を初任とし、湖南観察推官をつとめた。さらに剣南西川節度従事として召し出された。入朝して監察御史となり、侍御史に転じた。礼部郎中に累進した。大中3年(849年)、左司郎中に転じた[1][2]

宣宗順宗憲宗らに尊号を追尊しようとしたとき、楊発は都官郎中の盧搏とともに廟中の神主の題号を改めないよう意見した[3][2]

楊発は太常寺少卿に任じられ、蘇州刺史として出向した。福州刺史・福建観察使に転じた。大中12年(858年)、広州刺史・嶺南節度使となった[4]。厳格な統治をおこなって兵乱を招き、軍人に捕らえられて、郵舎に送られた。罪に問われて婺州刺史に左遷された。のちに婺州で死去した[5][2]

家族

  • 八世祖:楊素の越国公)
  • 七世祖:楊玄奨(隋の義陽郡太守)
  • 玄祖父:楊崇本(宋州長史)
  • 高祖父:楊悟虚(朔州司馬)
  • 曾祖父:楊幼烈(寧州司馬)
  • 祖父:楊蔵器(三水県丞)
  • 父:楊遺直(濠州録事参軍)[1]
  • 母:元氏
  • 弟:楊假(字は仁之、太常寺少卿、常州刺史)[5][6]
  • 弟:楊収[7][8]
  • 弟:楊厳[9][6]
  • 子:楊乗(歌詩を作ることができ、顕職を歴任した)[5]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI