楊収
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経歴
はじめ涔陽に住み、その生活は貧しかった。7歳で楊収は父を失い、成人のように喪に服した。13歳で儒学の諸経典の意義にほぼ通じ、呉人に「神童」と呼ばれた。成長すると、その身長は6尺2寸あり、その眉目は秀麗で寡黙であり、博覧強記であった。開成5年(840年)に楊収は長安に上京し、会昌元年(841年)に進士に及第した[3][4]。
この年、司徒の杜悰が淮南節度使となると、楊収はその下で淮南節度推官をつとめ、校書郎に任じられた。杜悰が度支を領知すると、楊収は巡官をつとめた。会昌5年(845年)、杜悰が剣南東川節度使となると、楊収はその下で掌書記をつとめ、協律郎に任じられた。大中2年(848年)、杜悰が剣南西川節度使に転じると、楊収は記室を管掌した。宰相の馬植の推薦により渭南県尉に任じられ、集賢院校理をつとめた。のちに監察御史となった[5][6]。
裴休が宰相となると、楊収は儒学に造詣が深かったことから、太常寺博士として任用された。ほどなく母が死去したため、楊収は辞職して蘇州に帰り、喪に服した。喪が明けると、楊収は淮南節度使の崔鉉の下で淮南観察支使をつとめた。入朝して侍御史となり、職方員外郎・分司東都に転じた。宰相の夏侯孜が度支を領知すると、楊収は判官として任用された。免職され、司勲員外郎・長安県令に転じた。任期を満了して、吏部員外郎に転じた。ときに杜悰と夏侯孜が洛陽にあり、ともに楊収を執政に推薦した。楊収は宰相の令狐綯に任用されて翰林学士となり、庫部郎中・知制誥から中書舎人に任じられた。兵部侍郎・翰林学士承旨に進んだ[7][8]。咸通4年(863年)、銀青光禄大夫・中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった[9][7][10]。咸通5年(864年)、門下侍郎となり、刑部尚書を兼ねた[11]。
ときに安南都護府が南詔の攻撃によって失陥していたことから、楊収は江西で軍を整えて嶺南に進出させ、洪州に鎮南軍を置いて補給の態勢を築くよう上奏した。懿宗の称賛を受けて、門下侍郎のまま尚書右僕射・太清太微宮使・弘文館学士となり、晋陽県男に封じられた[7][8]。
咸通8年(867年)10月、楊収は宰相を退任し、検校工部尚書となり、宣歙観察使として出された。韋保衡が宰相となると、楊収はかつて厳譔が江西節度使となるにあたって、賄賂100万を受け取っていたことを弾劾された。咸通9年(868年)8月、端州司馬に左遷された[7][12]。咸通10年(869年)、官爵を削られ、驩州に流された[13]。咸通11年(870年)3月、端渓県で死去した。享年は55。