極東選手権競技大会バスケットボール競技
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第1回
第1回極東選手権競技大会においては、フィリピンが優勝した。日本は出場していない。
第2回
第2回極東選手権競技大会においては、フィリピンが優勝した。日本は出場していない。
第3回

第3回極東選手権競技大会において、バスケットボール競技に日本が初出場した。日本からは佐藤金一をキャプテンとする京都YMCAチームが日本代表チームとして出場した[2][3]。日本は中国とフィリピンに敗れ2戦2敗であった。フィリピンが優勝、中国が2位、日本が3位であった[4]。
第4回
第4回極東選手権競技大会においては、フィリピンが優勝した。日本は出場していない。
第5回
第5回極東選手権競技大会には、日本が再び出場した。東京YMCAが母体となり、薬師寺尊正、神田真輔、野村憲夫、坂本郵次、石橋賢三、高見澤忠雄、齋藤喜八郎が出場した[2]。日本は中国とフィリピンに敗れ2戦2敗であった。中国が優勝し、フィリピンが2位、日本が3位であった[4]。
第6回

第6回極東選手権競技大会においても東京YMCAが主体のチームが日本代表として出場し、薬師寺、坂本、野村憲夫、石橋、高見澤、横山一郎、福岡金平、神田、小林豊に立教大学の野村瞳、松崎一雄、佐々木権三郎を加えたメンバーが出場した[2]。フィリピンが優勝し、中国が2位、日本が3位であった[4]。
第7回
第7回極東選手権競技大会においては東京YMCAの横山、石橋、高見澤、三橋義雄、神田、小林、齋藤順、小森一男、三橋誠、杉浦安次郎らが出場した[5]。中国とフィリピンとの2回戦総当たりのリーグ戦方式で戦ったが、0勝4敗と大敗した[5]。フィリピンが優勝し、中国が2位、日本が3位であった[4]。
第8回
第8回極東選手権競技大会においては、接戦ができるほど実力が向上した。メンバーはガードとして中村、佐藤、高田、青柳、内田、フォワードとして野村、田中、大橋、清水、センターとして東城などが出場した[5]。フィリピンが優勝し、中国が2位、日本が3位であった[4]。
第9回
第9回極東選手権競技大会においては、ガードとして大庭哲夫、土肥一雄、剣持保六、小林正一、フォワードとして野村瞳、大橋貞雄、植田義巳、井上陽一、センターとして大内哲彦、田中秀次郎の10人が出場した。各国2回戦ずつ試合を行ったが中国に2勝し、フィリピンと1勝1敗となり、フィリピンとの決勝で敗れた[5]。フィリピンが優勝し、日本が2位、中国が3位であった[4]。
第10回
第10回極東選手権競技大会においては緒戦で中国に敗れ優勝することはできなかった[5]。フィリピンが優勝し、中国が2位、日本が3位であった[4]。
注釈
- ↑ 原文ママ。50年史 p.65には52-31と記載されている。
出典
- ↑ England, Frederick (1926年). “History of the Far Eastern Athletic Association”. Official Bulletin of the International Olympic Committee (International Olympic Committee). http://library.la84.org/OlympicInformationCenter/OlympicReview/1926/BODE3/BODE3i.pdf 2014年7月21日閲覧。
- 1 2 3 50年史 p.65
- ↑ “掲額者一覧”. 日本バスケットボール殿堂. 2025年2月11日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 50年史 p.484
- 1 2 3 4 5 50年史 p.66
- 日本バスケットボール協会広報部会 編『バスケットボールの歩み : 日本バスケットボール協会50年史』日本バスケットボール協会、1981年。https://dl.ndl.go.jp/pid/12172727/1/。