榊山神社 (中津川市)
From Wikipedia, the free encyclopedia
例祭
歴史
明治24年(1891年)8月に書かれた由緒書によると、創建は養老2年(718年)6月に荒田栄久の勧請とされる。
荒田栄久の家の庭に、突然、七本の杉苗が天から降った。その時、荒田家[1]の童子が、神託を話した。
そこで荒田栄久は、杉苗を植えて森として社殿を築き、「飛天王」と称して牛頭天王を氏神として尊崇した。
また、この出来事が地名の植苗木(現・中津川市立福岡小学校付近)の由来となった。
鎌倉時代の元弘・建武年間に、遠山一雲入道は広恵寺城より巽の方向の木曽川に臨む要害の地である高森に城を築くと、「植」の字を省いて苗木とした。
以降、苗木遠山氏により保護された。鎌倉時代末期から南北朝時代ごろ、広恵寺城に宗良親王が身を寄せていたという言い伝えがある。敵軍に攻められた際に、遠山景利が飛天王に祈ると、社殿から敵軍に矢が放たれ、たちまち暴風雨がおきて敵軍が退散したという。
戦国時代の天文年間、遠山直廉が苗木城を築城すると、飛天王も苗木城に移転しようとしたが、神体が途中で動かなくなった。直廉はこの地に飛天王を祀ることにし、天文10年(1541年)に新たな社殿を築いた。これが現社地である。
慶長19年(1614年)、苗木藩初代藩主の遠山友政は社殿を悉く再建し、
寛文8年(1668年)、苗木藩三代藩主の遠山友貞が社殿ならびに三宮殿を再建したことが棟札に記されている。
江戸時代には苗木藩の保護を受け続けた。
本殿右脇社前にあるこの石燈籠一対は、高さ210cm、笠巾55cmで、左右の側面に
西尾孫六郎勝房
とそれぞれ刻銘されている。
明治2年(1869年)、牛頭天王宮から八重垣神社に改称し、明治5年(1869年)、榊山神社に改称した。
上苗木の飛天王の跡地には、明治32年(1899年)植苗木神社が創建されている。
明治43年頃に境内に建立された、乃木希典筆跡(臺記念碑)の表面に刻まれた「日清日露戦没記念碑」の文字は、第三軍司令官であった乃木大将の揮毫によるもので、裏面には日清戦争13名、日露戦争125名の従軍者の氏名が記録されている。
昭和35年(1960年)6月10日、岐阜県神社庁より県神社庁長参向指定神社(金幣社)の指定(金52号)を受ける[3]。
光明山 雲臺寺
牛頭天王宮は、慶応4年(1868年)に神仏分離が施行されるまでは神仏混淆で、その別当寺として光明山 雲臺寺が、榊山神社の南側の氏子会館の場所にあった。
牛頭天王宮は、慶長5年(1600年)以来、三世まで加茂郡細目村の成就院から山伏が来て別当となっていた。
寛永年間(1624 - 1644年)に、山伏院を合わせて、春清[4]によって、雲臺寺が開山された。
江戸時代は、苗木藩の祈祷寺として、苗木城下にあった龍王院(高森神社)とともに新義真言宗に属していた。
牛頭天王宮は代々、雲臺寺の別当によって祭事が行われてきたが、
慶応4年(1868年)、十八世の眞龍榮温の代に、神仏分離令が布告されると、雲臺寺は廃寺となり、法印であった眞龍榮温と法子の榮徳は共に複飾[5]して宮原榮政となり、雲臺寺は廃寺となった。
指定文化財
国指定重要文化財
- 太刀 銘 吉則[6]
第12代苗木藩主遠山友禄の寄進である。長さ75,6cm 反り2,6cm 磨き上げがあり、茎尻に刻銘がある。室町時代に山城国京都三条通の刀匠三条吉則の作刀で、「吉則」二字銘があり、「吉則の太刀」と呼ばれている。吉則の製作で現存する刀剣は極めて少なく、国の重要文化財の指定を受けているのは、この太刀一口のみである。 昭和3年(1928年)4月4日に重要文化財に指定され[6]、現在は中津川市苗木遠山史料館に寄託されている。
中津川市指定有形文化財
- 榊山神社 本殿[7]
指定年月日:平成元年4月1日
- 榊山神社 拝殿[7]
指定年月日:平成元年4月1日
- 榊山神社 石灯籠[8]
指定年月日:平成元年(1989年)4月1日
- 榊山神社 乃木希典筆跡(臺記念碑)[9]
指定年月日:平成元年(1989年)4月1日
交通
- 北恵那交通付知峡線「福岡総合事務所前」下車。
