天慶3年(940年)正月に平将門の乱に際して防戦した功に対する恩賞として、坂東の掾(具体的な任国は不明)に任ぜられる[6]。
翌天慶4年(941年)には伊予国警固使として藤原純友の追討に当たり、博多湾の戦いの後伊予国へ逃れた純友とその子息・重太丸を捕らえ[7]、同年7月7日に純友・重太丸の首を朝廷へ進上した[8]。後述のとおり、純友追討の功により伊予国宇和郡を与えられたとする伝承もある。
その後美濃介に転任したが、天慶7年(944年)2月6日の夕刻、自宅への帰途で何者かに斬殺された[9]。藤原純友の残党による報復ともいわれている[10]。