藤原純友
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正確な生年月日、故郷は現在まで不明。しかし故郷については伊予国(現在の愛媛県)だと言う説が最も有力である。藤原氏の中で最も栄えた藤原北家の出身で大叔父には藤原基経がいるが、早くに父を失い、都での出世は望むべくもなく地方官となる。
当初は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にあった。帰任後に海賊追捕宣旨を賜り、承平6年(936年)3月に再度伊予国に下向した[6]。『日本紀略』承平6年6月某日条によれば、この頃海賊の頭領となり[注釈 2]、伊予(愛媛県)の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を伸ばしたとされているが、実際には承平6年の時点では純友は海賊を追捕する側であったとするのが近年の研究動向である。
関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、藤原純友の勢力は畿内に進出、天慶2年(939年)には純友は部下・藤原文元に摂津国須岐駅において備前国・播磨国の介(備前介・藤原子高、播磨介・島田惟幹)を襲撃させ、これを捕らえた。翌天慶3年(940年)には、2月に淡路国・8月には伊予国と讃岐国の国府を襲撃し、略奪を行った。瀬戸内海を転戦し、天慶4年(941年)5月上旬には大宰府を陥落させた。
朝廷は純友追討のために追捕使長官・小野好古、次官・源経基、主典・藤原慶幸、大蔵春実による兵を差し向け、博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。
その後のことは純友に関する資料が乏しく現在まで詳細は不明な点が多い。小野好古の軍に捕まり今日の宇和島で殺されたとも、投獄され獄死したとも、さらにそれらは全て国府側の捏造であり、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方へと消えていったとも伝えられている。
将門の乱がわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。また、純友の合戦の様子は『純友追討記』として、追補使により政府への報告がなされたとされ、一部が『扶桑略記』に引用されている。

藤原純友を祀った神社
平将門との共謀説
系譜
出自の異説
脚注
参考文献
- 松本新八郎「藤原純友」(『日本史の人物』未来社、1958年)
- 福田豊彦『東国の兵乱ともののふたち』(吉川弘文館、1995年)
- 松原弘宣『藤原純友』(吉川弘文館、1999年)
- 亀井英希「藤原純友伝承に関する一考察」(『(愛媛県歴史文化博物館)研究紀要』第6巻、2001年3月)
- 寺内浩『藤原純友』(ミネルヴァ書房、2022年)
- 太田亮『姓氏家系大辭典』 [要文献特定詳細情報]、角川書店、1963年11月。 NCID BN01488361。
洞院公定「国立国会図書館デジタルコレクション 長良卿流」『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』 第7、吉川弘文館、東京〈故実叢書 ; 第3輯〉、1903年。全国書誌番号:52010882。
