武庫令
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秦
秦の制度は直接伝わらないが、前漢の制度は多く秦を引き継いでいるので、秦の時代にも武庫令があった可能性がある。
前漢
前漢の武庫令は太初元年(紀元前104年)まで中尉に属し、中尉が執金吾と改称してからは執金吾に属した[1]。武庫令には副官として丞(武庫丞)が3人ついた[1]。他の役所につく丞はふつう1人で、3人は多い。
武庫令が管理するのは長安の武庫で、高祖8年(紀元前199年)に未央宮がつくられたとき、前殿、太倉とともに建てられた[2]。この武庫は極めて重要と認められていた。征和2年(紀元前91年)に巫蠱の禍を被った皇太子(劉挙)が反乱を起こしたときには、反乱軍が武庫を制圧し、兵器を取り出して用いた[3]。
大将軍の王鳳には、将軍付きの武庫令があった。仕事がなくて暇だったという[4]。
地方では、雒陽(洛陽)に重要な武庫があり、雒陽武庫令が管理した[5]。
地方の郡や、漢に臣従する諸侯王の国にも武庫があったようで、「楚武庫印」という銅印と、「斉武庫丞」という封泥、東海郡の「武庫永始四年兵車器簿」が見つかっている[6]。
後漢
後漢では、引き続き執金吾の下に武庫令が置かれ、丞が一人ついた[7]。秩石は600石[7]。
魏晋南北朝
三国時代の魏にも武庫があったが、それを管理する役人については史書に記載がない。
南北朝時代の南朝の宋にも武庫令があり、尚書庫部の下にあった[9]。
梁には庫部尚書郎の下に南武庫署と北武庫署という官庁があり、長官に南武庫令と北武庫令がいた[10]。それぞれに南武庫丞2人と北武庫丞2人がついた[11]。それと同じか不明だが、衛尉卿が武庫令を統べていた[12]。
北朝の斉(北斉)では、衛尉卿を長官とする衛尉寺という官庁の下に、武庫署という官庁が置かれ、その長官が武庫令であった[13]。甲兵および吉凶の儀仗、すなわち鎧、武器、儀礼的な武器を掌った[13]。武庫署にはまた修故局が付属し、修故丞が古い甲(鎧)などの修理にあたった[13]。
隋
隋では、衛尉卿を長官とする衛尉寺の下に武庫署が置かれ、その長官は2人の武庫令で、2人の武庫丞がついた[14]。官品は正八品と定められた[15]。
唐
唐ははじめ都の長安にだけ武庫署を置いたが、開元25年(737年)に東都(洛陽)にも設けた[16]。衛尉卿を長官とする衛尉寺に属した[17][16]。
『旧唐書』は武庫令が両京に各1人いたとするが、『新唐書』では各2人である[17][16]。官品は従六品下。俸銭は7千[18]。
武庫丞は2人で官品は従八品下、府2人、史6人、監事1人がいて正九品上[17][16]。他に典事2人、掌固5人がいた[17][16]。『旧唐書』と『新唐書』では丞以下の人数は同じだが、『新唐書』ではその人数に各2人などすべて各の字がつ。
職務は、国家の武器・兵器を収蔵し、その種類と数を管理して、国の用に備えることである[17]。また、皇帝の親征、大田(軍事訓練)、巡狩の際に儀式として雄の羊・猪・鶏の血を鼓に塗った[17]。太子か大将が出征するときは、雄の豚を用いた[17]。恩赦があるときには、金雞を鼓とともに宮城の門の右に置き、大理が府県の囚徒を連れて到着したとき、鼓を叩いた[17][19]。鼓の音が止むと、集まった囚徒に皇帝の詔が宣べ伝えられた[19]。
宋
宋にも武庫はあったが、倉庫一般として特別扱いされなかったり、衛尉寺の下で複数の倉庫(弓箭庫、南外庫、軍器衣甲庫、軍器弓槍庫、軍器弩剣箭庫)ごとに官吏が置かれたりして、武庫令が任じられることはなかった[20]。
金
金では武庫署の長官として従六品の武庫令が置かれ、女真人をあてた[21]。従七品の武庫丞が1人ついた[21]。正八品の武庫直長は初め2人で、大定2年(1162年)以降1人となった[21]。
明・清
明に武庫令はなく、兵部尚書を長とする兵部の下に、武庫郎中を長とする武庫清吏司を置いた[22]。通称は武庫司である。副都の南京にも兵部と武庫司があり、武庫郎中がいた[23]。
清もまた、兵部尚書を長とする兵部の下に、武庫郎中を長とする武庫清吏司を置いた[24]。清末には陸軍改革があり、武庫司は軍実司に代わった。