武智丸
日本の貨物船
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概要
開発の経緯
戦時体制下の日本は、輸送手段の貨物船も造船用鋼材も極度に不足していた。舞鶴海軍工廠造船設計主任であった林邦雄技術中佐は貨物船を鉄筋コンクリート船とすることが鋼材節約になると考え、その建造を決意[2]。基礎研究を終えた林は試作として鉄筋コンクリート製浮桟橋建造を具申して中央の同意を得た[3]。周囲からは「狸の泥船」同様のものと白眼視されていたが[4]、確実性を重視した試作は成功し、その結果鉄筋コンクリート貨物船建造の内諾を得た林は総トン数800トン、機関出力750馬力、計画速力9.5ノット等とする貨物船の設計を行い、その設計通りで艦政本部の承認を得た[5]。本船はEC型戦時標準船と呼ばれ、800総トン、航海速力7ノットの貨物船として建造された[6]。
EC型戦時標準船に先立ち、エンジンなどの自走機関を持たないコンクリート製被曳航油槽船が、1943年(昭和18年)に5隻建造された。これらは円筒状の船体に船首がつき、船尾を切妻にした船型で、満載状態で船体は海面下に潜り、船首部分だけが海上に現れた。コンクリート製被曳航油槽船は全てが呉鎮守府に引き渡され、シンガポールから1,000トンのガソリンを持ち帰ることに成功した[7]ものの、曳航時の速力低下を懸念され、有効に使用されないまま各地で浮きタンク代用として使用された。
建造
造船主任の林は海軍に協力を申し出ていた大阪の土木会社[8]、浪速工務所社長の武智正次郎と会い、鉄筋コンクリート製貨物船に否定的であった武智を説得して協力を得た[9]。建造地は1943年3月に兵庫県印南郡曽根町の塩田跡を建造所とすることが決まり武智造船所と命名された[10]。この造船所のドックは素掘りで建設された[11]。コンクリート船の建造にあたっては土木工学者の高西敬義が所長として就任して指揮を執っている[8]。武智造船所ではまず試作的に無動力の艀2隻を建造したのち、武智丸の建造に着手した[12]。同地で進水を終えたコンクリート船は岡山県玉野市の三井造船玉野に回航して艤装が行われた[6]。建造費用は鋼船と比べると高くつき、計画段階で約2倍と見込まれた[13]。
この武智造船所は舞鶴海軍工廠の指導下にあったが、コンクリート船の建造を進めるため1945年3月に三井造船が経営に参画し名称を「三井造船曽根造船所」に改称[12]。7月には海軍管理工場として秘匿名「ヒロ八一二九工場」と改名した。この造船所は終戦時点で750名の人員が在籍していた[12]が、終戦と同時に閉鎖された[14]。
第一武智丸が竣工した1945年4月、艦政本部はコンクリート船を海軍の雑役船[1]として大量建造する方針を立てた。浦賀船渠四日市造船所、浅野造船所清水造船所[注 1]、三井造船安芸津造船所に建造を指示したが、実際に竣工したのは第一~第三武智丸の3隻のみだった[12]。
構造

外観は1番船倉と2番船倉の間にマストが立てられていたこと以外は2E型戦時標準船そのままの船型だった[6]。 鉄筋コンクリート製の船体は鋼船に比べて自重が若干重く、載貨重量は940トンと少ない欠点があった。1945年5月24日に第二武智丸が機雷に触雷したが、軽微な小破に留まり鋼船に劣らなかった。船体のコンクリート断面厚さは喫水線以上で12センチメートル、それ以下は13から18センチメートルと厚みを増し、船底部は25cm。建造時に喫水以下は薄鋼鈑で覆われ[4]、船首も衝突による破損防止のため鋼板の被覆で強化されている。船体外側にわずかに残る黒っぽい物質から、防水を兼ねてアスファルトが塗装されていた可能性が高い[15]。
機関
コンクリート製被曳航油槽船と異なり自力航行が可能であった。搭載した機関は三井造船玉野製の750馬力ディーゼルエンジン[16][17]で、鋼船と比べると振動が少なかったという[7]。750馬力というスペックはE型戦時標準船用に規格化されたものと同一で、複数の造船会社が阪神内燃機工業が設計した図面を元に単動4サイクルE6型ディーゼル機関(6シリンダ,420/620mm,750PS×250rpm)を製造した[18]。
使用材料
コンクリートの配合は容積比でセメント1:砂1.5:砂利3とし、一般の鉄筋コンクリートの標準配合1:2:4に比して船舶用に特別仕様で配合された。セメントは大阪窯業セメント会社の普通ポルトランドセメント、砂利は揖保川下流のものをそれぞれ用い、川砂が使われた[19]。鋼船の船体に使用する厚鋼板は製造技術と設備を必要としたが、コンクリート船が使用する鉄は配筋用の小形棒鋼が大半で、鋼船の建造リソースを圧迫しない点でも有利だった[13]。
製造時の実測によると、一隻当たりの材料は船体用鋼材135トン、木材(艤装用237石、型枠用1200石)、セメント170トン、川砂255トン、砂利510トン[19]。鋼鉄製で同規模の2E型戦時標準船と比べると鋼材の使用量は約65パーセントの節約になった[13]が、木材は型枠として使用するため二倍以上を必要とした[19]。
2003年の成分検査
武智丸は戦時中の劣悪な条件で製造され、防波堤としても干満差の大きい港で防波堤として50年以上も使われ続けてきた。過酷な状況においてアルカリ骨材反応による劣化や損傷が少ないことがコンクリート技術者の関心を引き、船体のコア抜きによる調査が行われた。2003年に分析と測定結果が千葉工業大学とショーボンド建設の連名で日本コンクリート工学協会に発表された[20]。
採取したコアからは細骨材の砂に混じって貝殻が発見され[21]、また内部の塩分濃度が建造時点で1立方メートルあたり2.5kgにも及ぶことが分かった。これは現行のJIS規定の8倍にもあたり、除塩しない海砂で作るコンクリートよりも高い数値だった。このことから建造地となった廃塩田の海砂が使用されたと推測されている[11]。一方で内部の鉄筋にはほとんど錆が見つからず、船体外部は内部と比べてコンクリートの中性化も進行していなかった[21]。防水塗装として塗られたアスファルトと思われる黒い物質が役立ったと推測された[15]。
船歴
海軍輸送船として[6]主に石炭や製鋼原料、雑貨輸送に利用され、瀬戸内海を中心に内航航路で運用された。戦時中に海軍造船官であった福田烈は実用試験のため玄界灘の荒海を越えた際の船体への影響を見たかったが、米軍の潜水艦が出没する戦争末期のため実現しなかったという[7]。終戦時には第二武智丸だけが使用可能であった[22]。
第二武智丸以降の姉妹船については出典によってばらつきがあるが、『三井造船株式会社50年史』(1968)では終戦までに武智造船所で3隻を建造、同所の経営引き継いだ三井造船曽根造船所で進水済み艤装中のものが1隻、工事中のものが2隻であったという[23]。
なお『造船百年史』(1958年)では第一・第二の2隻[24]、『戦時造船史』(1962年)[4]および『昭和造船史 第1巻 (戦前・戦時編)』(1977年)[1]では第一~第三の3隻となっている。以下第一~第四まで4隻の記述の大半は『残存・帝国艦艇』(1972年)[22][注 2]による。
第一武智丸
第二武智丸
- 1945年4月 - 竣工[27]。
- 1945年5月24日 - 関門海峡を航行中、部埼灯台付近で米軍のB29が瀬戸内海に敷設した磁気機雷と接触。軽微な被害を受ける[25][注 3]。
- 終戦までに3回触雷したが磁気機雷は反応せず、さらに機銃掃射を受けたが、ドック入りせず数日間の沖修理で航海に復帰している[25]。機銃の穴はセメントを簡単に詰めて埋められ、船内に入った弾丸が跳弾として被害を拡大することもなかった[28]。
- 神戸港内で鋼船に追突されたが、沈んだのは鋼船の方だった[25]。
- 戦後、大阪商船が払い下げを受ける[27]。
- 1948年 - 国内の荷動きが少ないなか使途に困り廃船となる[27]。
第三武智丸
第四武智丸
沈船防波堤への転用
呉の安浦漁港には防波堤がなく、1945年9月の枕崎台風などの台風で漁船などがたびたび被害を被っていた。安浦漁協は県に防波堤設置を陳情したが、漁港の沖合いは海底の地盤が粘土質で軟弱であり、干満差が5メートルにも達する工事の困難な環境だった[25]。そのため県は代案として呉港の第一武智丸と、大阪港の第二武智丸の二隻を防波堤として転用することになった[25]。
1947年(昭和22年)に大蔵省から船体の払い下げを受け、1949年(昭和24年)に基礎工事を開始した。海底の泥を浚渫して粗朶沈床(そだちんしょう)を0.9メートル、置換砂を1.6メートル敷き、「第一武智丸」と「第二武智丸」の船尾同士を繋げて位置を決め、スクリューシャフトを抜き、船体底部数箇所に穴を開けて海水を船内に入れて満潮時に沈設し、船体両側に捨石をおくなどして船体を固定して1950年(昭和25年)2月に完成した。事業費は800万円で、昭和24年度予算で水産庁の補助を受けて執行された[25]。
沈設当時の二隻は上部構造物がほぼそのまま残されていたが、朝鮮特需でスクラップ価格が高騰した時期[注 5]に金属製構造物の大半は持ち去られてコンクリート船体のみとなり、船首部の錨巻上げ部付近にコンクリート埋め込み金具などがわずかに残存する。溶接跡から非熟練工の作業がうかがわれ、当時の勤労動員者もしくは学徒の手によると推測される。現在、陸側の「第一武智丸」は沈設から60年以上を経て主に船首部が甲板まで沈下しているが、沖側の「第二武智丸」はほぼ沈設当時の位置にあり、船首左舷に白く大書されていた船名の「第一武智丸」は塗料が剥落して判読し難い。現地は史跡としても保存しており、漁港の駐車場から「第二武智丸」の先に設置された防波堤端の灯台まで通路が設けられて「第一・第二武智丸」の船体構造を見られるが、風化が進行している箇所がある。
被曳航油槽船の戦後
コンクリート製被曳航油槽船は、戦後に呉海軍工廠で係留されていた1隻が広島県音戸町に払い下げられ、1953年(昭和28年)に坪井漁港の防波堤として沈設されて現存する。山口県笠戸島の岸に打ち上げられた1隻は、船体前半部が失われて後半部のみが残存する。