武田信正 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代生誕 慶長5年(1600年)死没 貞享元年5月9日(1684年6月21日)別名 教了、二位 凡例武田 信正時代 江戸時代生誕 慶長5年(1600年)死没 貞享元年5月9日(1684年6月21日)別名 教了、二位戒名 智梅院殿誉玄了信正大居士氏族 武田氏(甲斐源氏)父母 父:武田信道、母:森島新吾の娘兄弟 信正、女子、女子妻 正室:内藤忠興の娘子 信興、大島信冬、西川信重、渡邊信證テンプレートを表示 武田 信正(たけだ のぶまさ)は、江戸時代前期の人物。武田信道の子。武田信玄の曾孫にあたる。子に武田信興。妻は内藤忠興の娘。 慶長18年(1613年)、大久保長安の死後に起こった大久保長安事件に連座して、父信道とともに松平康長に預けられた。のち、元和元年(1615年)に伊豆大島に配流され、同島の野増に居を構える。父が没したのちも赦されず在島したが、上野寛永寺の公海[注釈 1]のとりなしなどがあり、寛文3年(1663年)3月、徳川家光の十三回忌に赦免され江戸に戻った。そして磐城平藩主内藤忠興に迎えられ、忠興の娘(母は小山田信茂の娘香具姫)の婿となった。2人の間の子信興は高家に列せられている。 系譜 父:武田信道 母:林称院(浅野家家臣森島新吾の娘満々) 正室:内藤忠興の娘 武田信興 側室:富士井氏 大島信冬 西川信重 渡邊信證 大島在島時、家臣富士井丹波の孫娘との間に信冬、信重、信證の3子を儲けた。長男信冬は家臣の大島家を相続し、米倉氏に仕えた。次男信重は家臣西川家を相続し、子孫は代々高家武田家に仕え、明治維新後武田に復姓。信證は家臣渡邊家を相続し、子孫は絶えている。 脚注 注釈 ↑ 公海の外祖父本願寺教如の母は三条公頼の三女で、教如は信道の祖父海野信親とは母方の従兄弟。 出典 参考文献 この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2023年9月) 「武田古蹟考」(東京大学史料編纂所) 「武田由来書」(東京大学史料編纂所) 表話編歴伊豆武田家当主宗家 信義 信光 信政 信時 時綱 信宗 信武 信成 信春 信満 信重 信守 信昌 信縄 信虎 晴信(信玄) 勝頼 信勝 勝千代(信治) 信吉 | 断絶 分家・支流 信道系 〔晴信(信玄) 信親(竜芳)〕 信道 信正 信興 信安 信明 護信 信典 信之 崇信 信任 要子 信安 昌信 邦信 英信 米沢武田家 信清 勝信 信秀 信安 信全 信久 信福 信順 信明 信篤 大勝 信一 茂 昌信 信道系は信玄を初代として代数を数えている。 Related Articles