殷鵬

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殷 鵬(いん ほう、生年不詳 - 947年)は、五代十国時代官僚は大挙。本貫魏州大名県[1]

経歴

才知と容貌が傑出していることで、郷里に称賛された。弱冠にして進士に及第した。後唐の宋王李従厚が魏博節度使となると、殷鵬はその名を知られて、魏博節度従事として召された。長興4年(933年)、閔帝(李従厚)が即位すると、殷鵬は右拾遺となった。左補闕・考功員外郎を歴任し、史館修撰をつとめ、刑部郎中に転じた[1]後晋天福6年(941年)、水部郎中・知制誥となった[2]。殷鵬は容姿が婦人のようであり、人に媚びるのが得意であった。のちに馮玉とともに中書舎人に任じられた。馮玉は詔文を起草する才能がなかったため、文章の作成の多くは殷鵬に委ねられた。馮玉が潁州団練使として出向すると、殷鵬は馮玉の邸を借りて住み、馮玉の禄を分けられて生活した[1]開運2年(945年)、馮玉が枢密使となると、殷鵬は給事中・枢密直学士に抜擢された[3]。尚書左丞の王易簡が殷鵬を非難したため、殷鵬はかれを憎んだ。開運3年(946年)、契丹開封府に入ると、馮玉と殷鵬によって書かれた王易簡を筆頭とした左遷候補のリストが発見された。天福12年(947年)、馮玉が契丹に連行されると、殷鵬はほどなく病没した[4]

脚注

伝記資料

参考文献

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