毛宗崗

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生誕 崇禎6年(1633年)8月
長洲
中華人民共和国江蘇省蘇州市
死没 1718年~1721年?
別名 号:孑庵(けつあん)
民族 漢族
もう そうこう

毛 宗崗
毛宗崗本『三国志演義』挿絵
生誕 崇禎6年(1633年)8月
長洲
中華人民共和国江蘇省蘇州市
死没 1718年~1721年?
別名 号:孑庵(けつあん)
民族 漢族
職業 文学批評家
活動期間 末 -
代表作 校訂『三国志演義
『第七才子書・琵琶記
家族 父:毛倫、弟(名は不詳)
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毛 宗崗(もう そうこう、簡体字: 毛宗岗、1633年8月 - ?[1])、あざな序始中国末・初の文学批評[1][2]。古典小説『三国志演義』の、現在最も流布した版本校訂した人物として知られる[1][2]

蔣燦

毛宗崗は、父の毛綸(もうりん:号・声山)とともに『三国志演義』を校訂したことで知られるが、彼ら父子の生涯についてはほとんど知られていなかった。しかし、『婁関蔣氏本支録』[3]、『婁関蔣氏本支録右編[4]といった婁関蔣氏一族の史料や、同一族出身の清代初期の人物・蔣廷鋐の未発表詩集『半関詩集』[5]に毛父子に関する多数の記述が発見された[6]

蔣廷鋐(1663年 - 1729年)は、蘇州呉県出身の太学生で、婁関蔣氏の第七世にあたり、『半関詩集』は自身の訂正稿本で、全33巻からなる。康熙20年(1681年)から雍正4年(1726年)にかけての蔣氏の詩・文章・詞が収録され、その中には毛宗崗の未発表作品、その生涯、交友関係について多くの記述が含まれている[6]

毛宗崗の未発表文章によると、戊戌(康熙57年:1718年)に「86歳」とあり、逆算すると生年は崇禎6年(1633年)であると推測できる。また、蔣廷鋐の詩「寿西河夫子八十」の注釈から8月生まれと判明し、「天谷老人」「半衲」「孑庵」「孑叟」といった号を用いている[6]

順治8年(1651年)、父・毛綸が蔣燦中国語版に招かれ、孫の蔣之逵中国語版の師となったことで蔣氏一族との交流が始まり[3][4]、康熙20年(1681年)、毛宗崗が49歳の頃に蔣廷鋐・蔣涵・蔣深中国語版を自身の弟子として迎えた[4][6]

毛綸と同郷・同時代の文芸評論家・金聖嘆と交流があったこと、蔣銘(蔣廷鋐の兄)が『古文匯鈔』を編纂・選定した際[3][4]、毛宗崗が「毛子嶼始」の名で批評・選定に携わった可能性があること[6]、家屋が焼失し、所蔵していた書物がすべて焼けてしまったこと[3][6]、友人に詩を贈ったことや、弟が先に亡くなり、深い悲しみに打ちひしがれたことなどが記される[6]

康熙57年(1718年)、86歳になった自身の孤独な老後を詠んだ詞『沁園春』「妻や子はほとんどおらず、子孫も絶えている」といった内容から、寂しい晩年を物語る。康熙60年(1721年)、蔣廷鋐の詩に、毛宗崗を偲ぶような記述があることから、1718年から1721年の間の、いずれかの年に亡くなったとみられる[6]

毛本版『三国志演義』

校訂の経緯

明代(万暦)『三國志通俗演義』
明代(万暦)『三國志通俗演義』

毛宗崗の父・毛綸(号:声山)は文名高い人物だったが、任官せず貧しい暮らしを送っていた。中年になった頃、両目を失明した。そんな毛綸の楽しみは、『琵琶記』および『三国志演義』(以下、『演義』)を批評することであった[7][8][9]。毛綸は羅貫中の『通俗三国志』(『演義』の原作)の完成度を司馬遷の『史記』にも劣らないと高く評価していた。しかし後世に登場したさまざまな版本の改悪内容に不満を覚え、ついに自らが校訂することを決意する[10][11]

息子の毛宗崗も文名高い人物でありながら、父同様に任官せず、父が『演義』に評を施す作業に従い、これを完成させた(原名:『第一才子書三国志』)。清の康煕初年(1662年)頃とみられる[12][9][注 1]。完成した本を読んだ毛綸の友人が称賛し、出版を勧めたので刊行へと動き出したが、この時、自分の手柄にしようと、本を奪おうとした弟子の裏切りに遭ったため、刊行が遅れたという[15][14]

毛宗崗本『演義』は、このように毛父子の共同作業によるものであったが、世間の評価では毛宗崗ひとりの功績とされることが多い[9]

手法と思想

『三国志演義』各種刊本の系譜
『三国志演義』各種刊本の系譜

略称は『毛本』。清の康煕刊本版木を彫って紙に印刷した本)が現存している。全60巻・120回からなる[2]

冒頭には金聖嘆の名を借りて作成した序文『金聖嘆序』、どのような方針で編纂したのかを説明する『凡例』[16]、小説の手引き『読三国志法』がある[9]。『李卓吾先生批評三国志』を底本に[17]、回目の整理、文章の手直し、論・賛の削除、エピソードの追加、評点(文章の重要な部分を強調するために記す点)などを行っている[2]

毛宗崗は金聖嘆を師としてその批評手法に倣い、改訂・補強・削除を施しているが、金聖嘆との違いは、毛宗崗は歴史小説を特別重視し、歴史小説の史実への依拠を強調しつつも、しかし必要な虚構(フィクション)には反対せず、また、『演義』の人物像を創造した経験を総括して見解を示し、物語の文学性や構造について詳細・精緻に分析する、といった独自の成果も収めている[9]

毛宗崗本『演義』には、「劉を尊び、曹を貶む」(劉備漢王朝の末裔であることから、彼が興した国・蜀漢を正統と見做し、曹操らを臣下として位置づける)の傾向が強められていることからも、封建時代の正統観と、儒家民本思想(民(たみ)を本(もと)とする考え)、民族観念(漢民族としてのアイデンティティ)が含まれていることが指摘されている[9]。また、その思想には毛綸が幼い頃に父(毛宗崗の祖父)から受けた家庭教育の影響も考えられる。毛綸は父から、当時低俗とされた小説・伝奇の中で『琵琶記』だけは特別に読むことを許され、その理由は『琵琶記』が「孝・義・貞・淑」といった道徳や教訓を説く書物で、他の伝奇とは一線を画していたからだという。毛綸は『琵琶記』を生涯愛読し、毛宗崗にも受け継がれたと見られる[7][18](→次節参照)。

『第七才子書琵琶記』

京劇『琵琶記』の演目のひとつ「掃松下書」。張広才役:張瑞、李旺役:張程。
京劇『琵琶記』の演目のひとつ「掃松下書」張広才役:張瑞、李旺役:張程。

『毛本』の完成後、毛父子が次に取り掛かったのは、『琵琶記』の評点本である[3][4]。『琵琶記』とは、元末明初の戯曲(劇の台本)であり、南戯の最高傑作とされる。ある夫婦の別離と再会までの苦難が描かれる[19]

毛綸の父(名は不詳)は、普段から「孝・義・貞・淑」といった儒教の徳目を重視しており、それらの教えが書かれた『琵琶記』を息子の毛綸に読むことを薦めた。毛綸はその優れた文章に感動し、彼の愛読書となった。「いつか『琵琶記』に評点を付けて出版し、人々と分かち合いたい」と密かに願っていたが、家が貧しく、余暇もなく、その夢は叶わなかった。毛綸が失明した後、彼は息子の毛宗崗に『琵琶記』を朗読させ、それを聴くことを楽しむうちに、かつての出版の夢を再び思い起こすと、『琵琶記』に関する評語を毛綸が口述し、毛宗崗がそれを筆録した[3][7][18]

毛宗崗は父の評点にいくつかの補足を施した「参論」を書き加え、全書の「総論」の付録として収めた。こうして『第七才子書琵琶記』は完成した[3][4]。同書の巻一には「康熙丙午」(1666年)とあり[13]、序文によれば、当時、毛綸はまだ存命であった[8]

毛父子の劇作に対する思想や観点は非常に似通っており、毛宗崗研究においても極めて重要な資料のひとつである[20]

評価

『毛本』はそれまでの版本と比べ、文学的質が高かったことから、以降、もっとも読者に受け入れられ、広く流布した版本となった。現在知られる『演義』の内容は、この『毛本』に依るものである[9]

また、毛宗崗は中国古典小説の理論形成にも大きく貢献し、中国文学批評史においても、現在も重要な位置を占めている[9][1]

なお、『毛本』の登場により従来、その他の版本は淘汰されたものと思われていたが、1734年に刊行された『鼎鐫按鑑演義古本全像三国英雄志伝』、1802年刊行『新刻按鑑演義三国志伝』ほか、『毛本』登場以降も旧来の版本が刊行されていたことが判明している[21]

脚注

参考文献

関連事項

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