氷川神社 (戸田市上戸田)
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| 氷川神社 | |
|---|---|
|
| |
| 所在地 | 埼玉県戸田市上戸田3-20-11 |
| 位置 | 北緯35度48分50.0秒 東経139度40分30.9秒 / 北緯35.813889度 東経139.675250度座標: 北緯35度48分50.0秒 東経139度40分30.9秒 / 北緯35.813889度 東経139.675250度 |
| 主祭神 | 素盞嗚尊 |
| 社格等 | 村社 |
| 創建 | 永徳2年(1382年) |
| 別名 | 上戸田氷川神社 |
氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県戸田市上戸田の神社。戸田市内には複数の氷川神社があるため、この神社は上戸田氷川神社とも呼ばれる[1]。
創建
当地は弥生時代から古墳時代前期にかけての弥生墳丘墓(方形周溝墓)が百基以上が発見されており、太古の昔から多くの人が住んでいたことが窺える[2]。
明確な証拠はないが『神社明細帳』によると[3]、1382年(永徳2年)に創建された。当地を治める戸田城の城主桃井直和(播磨守桃井直常の嫡子)が自らの武運長久を祈るため、大宮の氷川神社から分霊を勧請して上戸田氷川神社として創建したという[4]。ただし明確な証拠はない[5]。この時に直和が創建した多福院が別当寺であった[2]。こうして建てられた社は、戸田の鎮守として庶民の信仰を集めたという[6]。
江戸時代
江戸時代に入ると神社がある戸田は、旧中山道や荒川の戸田渡船場などがあることから、交通の要衝として栄えた[7]。1673年(延宝元年)、境内にある戸田市域で最も古い庚申塔が建つ[8]。1798年(寛政10年)、今も境内に現存する「寛政十年」「奉造立惣氏子中、別当多福院住碩宝」の銘がある[9]石鳥居が創建された[10]。

明治時代
1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、周辺の神社(上戸田村にある、字曲尺手無格第六天社、同無格社八幡社、字前谷無格社道祖神社、字無格社山王社、字後谷無閣社稲荷社[11])が合祀された[2]。1908年(明治41年)、戸田の渡しにあった宝徳2年(1451年)創建の羽黒山権現が、この地に移されたという[12]。この合併により、境内の力石、松尾芭蕉の「涼しさやほの三日月の羽黒山」の句碑、『江戸名所図会』にも描かれた戸田渡船場の住人が1802年(享和2年)に造立した羽黒山石碑・標柱などが境内に移設された[13]。さらに翌年の1909年(明治42年)には、神饌幣帛料供進神社に指定された[14]。
明治以降
1985年(昭和60年)時点での氏子数は上戸田地区の全戸、神職を赤尾省三が務めた[15]。祭日は7月10日と10月9日であったが[16]、2023年(令和5年)では、例祭は10月9日のみとなっている[17]。
文化財
上戸田氷川神社の力石及び旧羽黒山句碑・石造物(戸田市指定文化財 令和3年3月19日指定)[18]
羽黒権現
戸田の渡し場の右手に出羽の羽黒山から勧請した羽黒権現が祀られていた。木の又から湧き出る羽黒の霊泉とよばれる水があり、この霊泉を汲んで病人に服飲すると効果があり多くの参詣者を集めた[19]。明治43年内務省の指示により全国的に小さな神社の合祀が行われ、この羽黒権現の手洗石、狛犬、羽黒山供養塔二基など含め氷川神社に勧請し[20]石造物として戸田市の有形指定文化財としている[21]。また、大前の第六天社(多福院)、前谷の第六天社(海禅寺)、元蕨の稲荷社、後谷の稲荷社(多福院)、前谷の山王社(海禅寺)がそのとき同時に合祀された[22]。
石造物
手洗石[23]
| 右側面 | 正面 | 左側面 | |
|---|---|---|---|
| 安永六年銘手洗石 | 安永六酉歳六月十五日 | 奉納 羽黒山 | 金子善四郎
同 善兵衛 |
| 安享和元年銘手洗石 | 安永元辛酉年十二月吉日世話人 | 羽黒山 | 江戸南新川相模屋伊兵衛
同 亀田屋勘兵衛 日本橋萬町相模屋庄助 南新川 金子や仁右エ門 同 栗屋勘兵衛 |
| 嘉永七年銘手洗石 | 嘉永七年
寅 三月吉日 |
奉納 大根川岸
武蔵屋 同 同 ほか判読不明 |
京橋
講中之内 |
狛犬[23]
| 台石上段右側面 | 台石上段左側面 | 台石上段裏面 | 台石上段正面 | |
|---|---|---|---|---|
| 享和元年銘狛犬(左狛犬) | 世話人
日野屋伊兵衛 肴屋喜兵衛 八百屋久治良 町内吉五良 大工長兵衛 |
中講
堀町八北 |
北八丁堀石川岸
石工 和泉屋三良左衛門 |
獻 |
| 享和元年銘狛犬(左狛犬) | 戸江
堀町八北 |
世話人
肴屋清五郎 道具屋友七 金屋平治良 つくだにや吉五郎 |
享和元歳
酉九月吉日 |
奉 |
句碑[23]
| 正面 | 裏面 | 補足 | |
|---|---|---|---|
| 句碑(三日月塚) | はせを
涼しさや ほの三日月の 羽黒山 |
簔谷既盈
齢八十二書 先師遺言にして ことし文政七甲夏 ◯茲に此碑を建 既師の銘を録す 秋ちかき 空定まりぬ 天の川 四代家四世 鵲庵 歩牛 |
松尾芭蕉の句 |
力石

力石には昔からいろいろな言い伝えがあるが、上戸田の氷川神社境内に移設されている羽黒山権現の神域には、無名を含めて、15個の力石がある。江戸後期に羽黒山進行の盛んであった時に奉納されたものの一部と思われ、地元上戸田村の住民が奉納した亀遊石のほか、江戸の人から奉納された力石などが見られる[24]。
15個ある力石の刻字の中で、年号が刻まれたものは1基のみであり、その他の14個は、その刻まれた地名人名や銘と、年号が記された各時代の力持ち番付との照合から、その時代や由来が考察されている[25]。

まず一つめの上戸田グループは久治郎・豊蔵・八五郎・久五郎・音五郎の6名の力持ちグループである。寛政8年(1796)と明記されている一基を含め、おおよそが江戸時代のものと推測されている。二グループ目は、幕末から明治と推定される比較的新しい江戸グループである。当時の力持ちの名として、御蔵前代地由五郎・同竹次郎・同民五郎、本町東助、南新川の三吉、平治、そして三ノ宮卯之助という名が確認されている。うち、由五郎の銘には「上戸田村出生」の文字が見られ、故郷に錦を飾った力持ちの姿が彷彿され、戸田と江戸との交流に深く関わっていたことが見受けられる[25]。
年代が刻まれている1基は、寛政8年(1796)と明記されているが、その他の14基からは、天保4年(1833年)「江戸力持番付」で大関として記される三ノ宮卯之助から、明治24年(1891)に没した本町東助まで、時代は意外に幅広い[25]。
刻まれた銘のうち、神仏に収めたであろう「奉納」と刻まれたものは8基であるが、江戸グループはそのうち1基のみである。つまり、神仏への奉納ではなく興行の賞品(盾やトロフィーなど)のようなものであったことが推察される[25]。