池田元

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生誕 1962年(63 - 64歳)
愛媛県の旗愛媛県松山市
住居 東京都の旗東京都
国籍 日本の旗日本
別名 荒川十太(筆名)
いけだ はじめ
池田 元
1962年(63 - 64歳)
一般社団法人 随筆春秋 代表理事
生誕 1962年(63 - 64歳)
愛媛県の旗愛媛県松山市
住居 東京都の旗東京都
国籍 日本の旗日本
別名 荒川十太(筆名)
職業 文学同人誌代表理事
会社経営者
人材育成コーチ
影響を受けたもの 佐藤愛子 (作家)
荒川十太夫(先祖)
肩書き 随筆春秋 代表理事
研修設計 代表取締役
受賞 第17回 随筆春秋賞 佳作
(2011年実質トップ賞)
公式サイト 随筆春秋ポータル (公式)
池田元ポータル (公式)
池田元公式HP
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池田 元(いけだ はじめ、1962年昭和37年〉12月 - )[1][2]は、一般社団法人 随筆春秋[注 1][3]代表理事[4]である。随筆春秋の事務局では荒川十太[注 2]の筆名を用いている[4]。第17回随筆春秋賞で佳作[注 3][5][6]となった、随筆家である[5][6]。生業として有限会社研修設計の代表取締役を務めている[1][2]

愛媛県松山市出身。祖母の家系[7]は代々、伊予松山藩の剣術指南役を務めていた。元禄時代には、赤穂義士[注 4]堀部安兵衛および不破数右衛門切腹した際の介錯人を任されており、その役を務めたのが先祖の荒川十太夫である。池田の筆名「荒川十太」はこれに由来し、荒川十太夫から数えて10代目の子孫にあたる[8][9]

介錯人を藩から任されることは当時では名誉とされ、逸話は、講談荒川十太夫」や浪曲「ほまれの三百石」などで語り継がれている。[8]

講談荒川十太夫」は、講談師神田松鯉神田伯山が好んで口演しており、2022年10月の歌舞伎座「十月大歌舞伎」では、講談をもとにした新作歌舞伎『赤穂義士[注 4]外伝の内 荒川十太夫』が上演された。[10]

その主役・荒川十太夫を歌舞伎役者四代目尾上松緑が演じている[8][9][10][11]。なお、講談を歌舞伎として舞台化したのも、講談ファンとして知られる[12][13]松緑自身である。

また、同作の脚本は竹柴潤一[注 5]によるもので、令和4年(2022年)に大谷竹次郎賞を受賞している。この事実は同年12月13日、歌舞伎公式ウェブサイト「歌舞伎 on the web」で公表された[9][14]

2024年には歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」で『荒川十太夫』が再演[15]され、歌舞伎座Web講座[注 6]ではフリーアナウンサー・吉崎典子が、「荒川十太夫は実在の人物であり、十代目[注 7]子孫にあたる池田元氏は、祖母から介錯の様子を伝え聞いていた」と紹介した[注 6][9]

イラストレーターもりいくすおが荒川十太夫の肖像画を描いている。モデルはテレビドラマで同役を演じた俳優の渡辺謙である。[16][17]

この、もりいくすおとの縁をきっかけに、池田は赤穂義士[注 4]の子孫や関係者、歴史研究者・佐藤誠などと交流を深めるようになり、そこにエッセイスト・近藤健もいた。近藤は2003年から随筆春秋の会員[18]となっており、池田は近藤との交流を通じて同団体と関わるようになった。[9][19]

こうした経緯が背景にあり、池田は現在、一般社団法人随筆春秋代表理事を務めている[4][9]

近藤健と池田元、2人を結ぶ縁

元禄15年(1702年)12月、大石内蔵助を筆頭とする赤穂義士[注 4]47人が、本所・吉良邸に討ち入った。前年、江戸城松の廊下で藩主・浅野内匠頭が起こした刃傷事件[注 8]に端を発する敵討ちであり、義士たちは吉良上野介の首級を挙げて本懐を遂げた[注 9]。これが、世にいう「吉良邸討ち入り」である。その後、義士たちは大名四家[注 10]に預けられ、翌年2月に切腹を命じられた。[9]

この切腹に際し、熊本藩邸に預けられていた堀部弥兵衛安兵衛の父)の介錯を務めたのが米良市右衛門であり、近藤健はその13代目の子孫にあたる。一方、松山藩邸では堀部安兵衛および不破数右衛門の介錯を荒川十太夫が担い、池田はその10代目の子孫である。偶然にも両者の先祖は、堀部親子の介錯をそれぞれ務めていたことになる。[9]

近藤と池田は、それから凡そ320年を経て、赤穂義士[注 4]研究家・佐藤誠の紹介により知己を得る。すでに同人誌「随筆春秋」の事務局員であった近藤の勧めもあり、池田は同誌に参加。やがて池田は法人化を推進し、一般社団法人随筆春秋を設立して代表理事に就任。近藤は同人誌「随筆春秋」の代表として現在に至っている。[9]

池田提供の文章、佐藤愛子著作で

直木賞作家・佐藤愛子の著作『晩鐘』の執筆に際し、池田は資料提供を行った。佐藤の元夫である田畑麦彦(筆名)は、かつて社員教育を目的とする会社を経営していたが、自身の特異な金銭感覚が災いして倒産し、多額の負債を抱えるに至った。その返済のため、佐藤は執筆やテレビ出演などに追われることとなり、その様子は『戦いすんで日が暮れて』[注 11]や『晩鐘』[注 12]に描かれている。池田はこの社員教育会社に関する自筆資料を佐藤に手渡し[注 13]、その内容は訂正されることなく作品(佐藤愛子著『晩鐘』)に反映された。[20]

脚注

ギャラリー

関連項目

外部リンク

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