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池田章政

備中鴨方藩9代藩主 From Wikipedia, the free encyclopedia

池田 章政(いけだ あきまさ)は、幕末の大名、明治期の日本の政治家・華族。位階勲等爵位は、従一位勲一等侯爵。備中鴨方藩の第9代藩主、備前岡山藩第10代(最後)藩主、同藩初代(最後)藩知事、議定、刑法官副知事、刑法官知事、麝香間祗候、貴族院議員などを歴任。

時代 江戸時代末期ー明治時代
死没 明治36年(1903年)6月5日
改名 満次郎(幼名)→池田政詮→池田章政
概要 凡例池田 章政, 時代 ...
 
池田 章政
時代 江戸時代末期ー明治時代
生誕 天保7年5月3日(1836年6月16日)
死没 明治36年(1903年)6月5日
改名 満次郎(幼名)→池田政詮→池田章政
戒名 珠国院殿琢堂勳記大居士
墓所 曹源寺
官位 従五位下、内匠頭、従四位下、侍従、備前守、左近衛権少将、正四位、従三位、侯爵、正三位、従二位、正二位、従一位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇
藩 備中鴨方藩主→備前岡山藩主
氏族 相良氏→池田氏
父母 父:相良頼之、母:小川柳子
養父:池田政善、池田茂政
兄弟 相良長福、準之助、於栄、於保(米良則忠室のち宮原健之助室)、章政、於英(相良中務室)、相良頼基、貞四郎
妻 鑑子(戸田氏正の娘)
子 通子、延子、登久丸、政保(鴨方家を継ぐ)、詮政(宗家を継ぐ)、米子
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鴨方藩主時代は池田 政詮(いけだ まさのり)と称した。

系譜

肥後人吉藩第13代藩主相良頼之の次男として生まれる。幼名は満次郎。母は小川吉五郎の娘柳子。

頼之の祖父の相良長寛は、岡山藩第4代藩主池田宗政と正室の宝源院(黒田継高の長女)の次男であった。章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田宗家の養子に迎えられることになった。

岡山藩池田家は早くから満次郎(のちの章政)の血筋に着目しており、第8代藩主の池田慶政は、天保13年(1842年)に婿養子として池田家を継ぐと、満次郎を仮養子に指名することを強く望んだ。相良家では、頼之が満次郎の誕生後に隠居して長男の長福に家督を譲っていたが、満次郎は当主の長福に継ぐ大事な控えの立場であったため、この時は池田家の申し入れに応じなかった[1]。その後、満次郎が鴨方藩池田家の養子に入る弘化4年(1847年)までの間に同母弟の元三郎(相良頼基)が出生しており、元三郎はのちに長福の跡を継いで最後の人吉藩主となった。

章政の正室の鑑子は美濃大垣藩主戸田氏正の娘で、母・親姫は薩摩藩主島津重豪の娘である。そのため鑑子は、同じく重豪の孫である池田慶政の従妹、重豪の曾孫である慶政の先代(第7代藩主)池田斉敏の従叔母にあたる。

生涯

旧暦弘化4年3月5日(1847年)、鴨方藩の第8代藩主池田政善の末期養子となるため、人吉から江戸に入る。同年3月下旬、江戸の人吉藩邸から鴨方藩邸に移る。同年7月、末期養子として家督を相続した。嘉永2年12月(1850年)、従五位下・内匠頭に叙任する。後に信濃守に改める。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し、藩内における尊皇攘夷派からの信望もあった。

慶応4年3月15日(1868年)、章政は宗家の岡山藩主を継いだ。先代藩主の茂政が新政府から実兄の徳川慶喜追討の命令を受けたのに対し、自らは隠居したためである。鴨方藩主は章政の長男の政保が継いだ。そして章政は戊辰戦争においては新政府軍に与し、藩軍を関東・奥羽・函館にまで送った。

議定、刑法官副知事、刑法官知事などを経て、明治2年(1869年)の版籍奉還により岡山藩知事となる[2]。明治4年(1871年)、廃藩置県により免官となり、東京へ移った。

明治1-8年、岡山市の操山山頂に三勲神社を創建。和気清麻呂・児島高徳・楠木正行を祀り、尊皇の志を象徴する神社として建てられたものである。藩が新政府側に付いたことを明確に示す意図があったとされる。後に神社の名を継いだ三勲小学校・三勲学区が生まれ、現在もその名が残る[1]。

華族令制定により、新暦1884年(明治17年)に侯爵に列せられ、1903年(明治36年)に従一位となったが、同年6月5日に満68歳で死去した[2]。家督は次男の詮政が相続。

曹源寺の章政夫妻の墓。右が章政の墓。

年譜

(明治5年までの日付は旧暦)

  • 弘化4年7月4日(1847年) - 備中国鴨方藩主となる。時に、諱は政詮。
  • 嘉永2年12月16日(1850年) - 従五位下、内匠頭に叙任。
  • 慶応4年3月15日(1868年) - 備前岡山藩主継承と本家池田家家督を相続。3月16日、従四位下に昇叙し、侍従に任官。備前守に任替。 4月5日、江戸鎮台補兼警衛に就任。 4月10日、左近衛権少将に転任し、備前守如元。 閏4月5日、明治維新政府(以下同政府の官職)の議定に就任。(同年同月21日まで) 5月19日、刑法官副知事に就任(明治2年4月8日まで) 8月10日、議定心得を兼帯(同年10月19日まで) 12月9日、議定に再任(明治2年4月8日まで)。
  • 慶応4年4月8日(1868年) - 刑法官知事に異動(同年5月15日まで) 5月15日、麝香間祗候に遇せられる。6月2日、藩政改革のため、暫く岡山へ戻る許可を得る。
  • 明治2年6月17日(1869年) - 版籍奉還により、岡山藩知事に就任。
  • 明治4年7月14日(1871年) - 廃藩により、岡山藩知事の任を止む。
  • 1873年(明治6年) - 正四位に昇叙。
  • 1878年(明治11年)2月 - 第十五国立銀行頭取に就任(1895年9月30日まで)
  • 1879年(明治12年)12月11日 - 従三位に昇叙。
  • 1881年(明治14年)7月16日 - 勲三等に叙勲。旭日中綬章を受章。
  • 1884年(明治17年)7月7日 - 侯爵を受爵。
  • 1887年(明治20年)12月26日 - 正三位に昇叙。
  • 1890年(明治23年)2月 - 貴族院議員となる(1903年5月まで)。
  • 1892年(明治25年)7月5日 - 従二位に昇叙。
  • 1897年(明治30年)7月2日 - 正二位に昇叙。
  • 1903年(明治36年)3月30日 - 従一位に昇叙。 4月1日、勲二等に昇叙し、瑞宝章を受章。6月5日、死去。勲一等に昇叙し、瑞宝章が贈られる。

栄典

位階
爵位
勲章等
さらに見る 受章年, 略綬 ...
受章年 略綬 勲章名 備考
1881年(明治14年)7月16日 勲三等旭日中綬章
1885年(明治18年)12月17日 木杯一個[7]
1886年(明治18年)12月7日 木杯一組[8]
1886年(明治18年)12月7日 木杯一個[8]
1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章[9]
1903年(明治36年)4月1日 勲二等瑞宝章[10]
1903年(明治36年)6月5日 勲一等瑞宝章[11]
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脚注

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