泗川の戦い
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背景
慶長3年/万暦26年(1598年)9月末から10月初めにかけて、明と朝鮮の連合軍は西から順天倭城(小西軍)、泗川倭城(島津軍)、蔚山倭城(加藤軍)、に対して同時攻勢をかけた。この攻勢は三路の陸軍と一路の水軍が挟撃し、朝鮮半島の南海岸に散在していた日本軍を一挙に壊滅させ、戦争を終結するという「四路並進策」によるものだった。
このうち総兵の董一元が率いる明・朝鮮連合軍(中路軍)が泗川倭城に攻め寄せた。泗川は日本軍の策源地であった釜山と日本軍最左翼の順天倭城・南海倭城の中間に位置するため、ここを落とされると西方にいる軍との連絡が分断される可能性があった。この泗川に駐屯していたのは、義弘と子の忠恒率いる島津軍1万のみであった[9]。
泗川古城での前哨戦
明・朝鮮連合軍の大軍の動きを察知した義弘は、配下に守備させていた泗川古城・永春・昆陽・望晋の将兵に義弘のいる泗川新城に集結するよう命じた。このうち、泗川古城に配置されていた将兵は撤収することが遅れたため、明・朝鮮連合軍に包囲された。泗川古城は川上忠実を主将とし、およそ1万石の食糧を置いていたが、兵力はわずか数百にすぎなかった。慶長3年(1598年)9月27日、明軍は泗川古城を強襲、川上忠実は少数ながら頑強に抵抗し、城から出撃すると明将李寧・盧得功以下数百人を討ち取った。しかし、死傷者を多く出し危機的状況に陥っていたため、数の上で圧倒的に不利な川上忠実の軍勢は明・朝鮮連合軍の囲みを突破して泗川古城を放棄し、泗川新城への撤退を目指した。包囲を突破する際、忠実は36の矢を受け重傷を負い、150人余りが戦死したが泗川新城へ撤退することに成功した。
泗川古城の危急に対して泗川新城の義弘は、子の忠恒の援軍を派遣すべきだとする進言を島津軍の兵力が少数であることを理由に退け、泗川新城防備に徹した。また忠実は、瀬戸口重治に命じて敵の食糧庫を焼き討ちさせ、これに成功した。大兵力の連合軍は食糧が不足していたが、食料庫を焼かれたことでさらに窮地に陥り、短期決戦を余儀なくされた。明軍は、接収した泗川古城において軍議を行い、10月1日をもって泗川新城の総攻撃を行うことに決した[11]。
泗川新城での戦闘

義弘は泗川新城を背に強固な陣を張り、伏兵を配置した。連合軍の攻撃に対し、義弘は大量の鉄砲を使用したり、地雷を埋めるなどして対抗した。また、鉄片や鉄釘を砲弾の代わりに装填した大砲も使用した。明将茅国器、葉邦栄、彭信古などは泗川新城の大手に、郝三聘、師道立、馬呈文、藍芳威などが左右に備え、董一元が中軍として泗川新城に攻め寄せた。
籠城戦で立ち向かった島津軍は敵軍を集中射撃してしのぎ、午後まで熾烈な接戦が繰り広げられた。戦闘が続く中、明軍の火薬庫に引火し爆発、火薬の煙が視野を遮ったことで明・朝鮮連合軍は混乱に陥った。折から白と赤の2匹の狐が城中より明軍陣営の方へ走って行った。これを見た島津軍は、稲荷大明神の勝戦の奇瑞を示すものとして大いに士気が高まったという[12]。この機に乗じて、島津軍は城門を開き打って出た。義弘は伏兵を出動させて敵の隊列を寸断して混乱させ、義弘本隊も攻勢に転じた。義弘自ら4人斬り、忠恒も槍を受け負傷するも7人斬るなどして奮戦した。
混乱した連合軍は疲労していたことも相まって、壊滅的被害を受けた。島津軍は南江の右岸まで追撃を行い、混乱し壊走する連合軍は南江において無数の溺死者を出した。10月1日夜、島津軍は泗川の平原において勝鬨式を挙行し、戦闘は幕を閉じた。
その後、集結して撤退できた連合軍の兵力は1万ほどであったという。この戦いにより義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ・グイシーマンズ)と恐れられ、その武名は朝鮮だけでなく明国まで響き渡った[13]。
『朝鮮王朝実録』には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、これにより、三路に分かれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたと記述されている[14]。
絵本太閤記での記述
『絵本太閤記』では、泗川古城を守備していたのは伊勢兵部少輔定正(貞昌)となっている。また、泗川新城は新塞城となっている。また「鬼・島津」ではなく、「怕ろし(おそろし)のしまんず」となっている。明軍の兵力は4万余。島津軍の兵力は、義弘の5千余、忠恒の1千余、伊勢兵部少輔定正(貞昌)の300余、併せて6千3百余である。討ち取った明人の首は3万余とある。
勝敗の原因
篭城側の明・朝鮮連合軍はその戦力差(約2.5万対島津軍の約1.5万)のため、長期戦になれば有利になるはずだったが、実際には連合軍の指揮系統は統一されておらず、また補給線も脆弱だった。一方、攻撃側の島津軍は、兵力で劣るものの、これまでの戦いで劣勢を覆した経験から全軍の意思統一が図られており、島津家の兵だけで戦うことを選んだことで、少数ながらも軍としてのまとまりが高かった。
しかし、本戦の帰趨を決定づけた最大の要因は、島津軍の戦術的成功ではなく、明軍自身の致命的な失策であった。島津軍が正面から攻撃を仕掛けると、明軍はその圧力に応じて火器を集中的に発射した。ところが、その際に流れ弾または操作ミスによって自軍陣内の火薬庫に引火し、大爆発が発生した。この突然の爆発により明軍の陣形は瞬時に崩壊し、指揮系統は麻痺し、兵士たちはパニックに陥って総崩れとなった。島津軍はこの混乱に乗じて反撃に転じたにすぎず、決して兵力や戦術で優位に立っていたから勝利したわけではない。すなわち、泗川の戦いは「島津軍が強かったから勝った」のではなく、「明軍が自滅したから負けた」という性格が強い。圧倒的な兵力と火器を擁しながら、明軍はたった一つの偶発的かつ初歩的なミスによって、完勝すべき戦いを自ら手放したのである。
影響
泗川で明の中路軍が受けた敗北は、西路軍と東路軍も攻勢を断念する契機となった。本来、明・朝鮮連合軍の目標は水陸にわたって四路軍を一斉に前進させ、順天・泗川・蔚山の日本軍を各個撃破することだったが、中路軍の敗退により相互協力が不可能になった。結局、水軍を除く三路軍はすべて退却するに至り、これは四路並進策の構想そのものが失敗に終わったことを意味した。
泗川の戦いに先立つ8月18日、既に太閤豊臣秀吉は死去していたが、秀吉のその死は秘匿されており、その後、10月15日付で日本軍に撤退命令が下る。島津家がこの泗川の戦いで明軍を撃退して味方の組織的な撤退を可能にしたこと、また直後の露梁海戦で小西軍の脱出を可能にした(その際に朝鮮水軍の大将李舜臣を討取った)という功績は五大老達から高く評価されており、島津家は文禄・慶長の役に参加した諸大名で唯一の加増に与った。反面に予想外の大敗で衝撃を受けた明軍は指揮官を厳重に問責した。董一元は職級が3等級降格され、郝三聘と馬呈文は敵前逃亡したとして斬刑に処した[15][16]。泗川戦役以降、戦意を喪失した明軍は交戦を回避するような態度を示し、秀吉の死によって撤退し始めた日本軍の意向と相まって講和交渉が公然と行われるようになった。
帰国後の慶長4年6月に義弘・忠恒親子の連名で高野山に建立した慶長の役の供養碑には、南原の戦いの戦果について「慶長二年八月十五日於全羅道南原表大明國軍兵數千騎被討捕之内至當手前四百廿人伐果畢」と触れた後、泗川の戦いの戦果として「同十月朔日於慶尚道泗州表大明人八萬餘兵撃亡畢」とある。一方、味方の被害として「右於度々戰場味方士卒當弓箭刀杖被討者三千餘人海埵之閒横死病死之輩具難記矣」とある[17]。