泰清寺 (大阪市)
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当寺は古来、天王寺・茶臼山(現在の天王寺公園)に位置していた。その起源については、室町時代末期の永禄年間(1558年 - 1570年)に祐清寺を号し創建されたとする説や、江戸元禄期の元禄5年(1692年)に南禅寺塔頭・慈正院住持椎山が茶臼山に幽棲し堂を築いたのが始まりとする記録がある[1][2]。
いずれの伝承においても京都の臨済宗大本山南禅寺との縁が深い。宝暦9年(1759年)には、豪商・鴻池家が境内を再建。その際、南禅寺住持の三峰を開山に迎えた。また、南禅寺より伝教大師(最澄)作と伝わる毘沙門天を移し、伊予国の泰山寺より地蔵菩薩の分身を勧請して本尊としたと伝えられている[1][2]。
明治44年(1911年)11月、天王寺公園の整備に伴い、現在地(阿倍野区阿倍野筋4丁目)へ移転。昭和20年(1945年)の大阪大空襲により堂宇を焼失したが、昭和26年(1951年)に再建された。その後、現在の本堂が新築され、令和3年(2021年)には本堂地下に涅槃仏を祀る涅槃堂(納骨堂)が建立された[3]。
近代大阪文化の拠点
明治時代には、大阪における文化活動の拠点となった。
- 大阪満月会(おおさかまんげつかい) - 明治30年(1897年)、俳人・正岡子規の門下生らによる大阪を拠点とした俳句結社。「京阪満月会」から分離独立する形で組織された。茶臼山の泰清寺で開催された「第六回京阪満月会」を契機に独立した。このときの出席者には、後にジャーナリストとして活躍する杉村楚人冠、政治家の永田青嵐(永田秀次郎)、さらに関西俳壇を牽引した中川四明、遠藤痩石、野田別天楼、水落露石、若尾瀾水、虚吼(相島勘次郎)、武富瓦全、飯原翠竹らが名を連ね、ここを拠点に近代大阪俳壇の黎明が形作られた[4][5]。
- 大阪待成刀剣研究会(おおさかたいせいとうけんけんきゅうかい) - 明治44年(1911年)、高瀬羽皐の立ち会いのもと、愛刀家206人が発起人となり茶臼山の泰清寺で結成された。刀匠・高橋信秀らが所属した。名称の「たいせい」は、寺号「泰清」に由来する[6]。
所在地
大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋4-13-20