洗平竜也
日本の元野球選手・監督
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
高校時代まで
実家は米とニンニクを栽培する農家で[2]、六戸町立六戸小学校3年生から野球を始める[3]。中学生時代までは軟式野球でのプレーを経験していたが[4]、光星学院高校(現在の八戸学院光星高校)への進学を機に硬式野球部へ入ると、1年時の1994年夏からエースとして活躍。3年間でストレートの球速を20 km/h上げた末に、サイドスローから最速142 km/hのストレートを投げ込む速球派の左投手として、NPB球団のスカウトから注目されるまでに成長した[4]。もっとも、夏の県大会では3年生だった1996年まで3年連続で決勝戦で敗れるなど、在学中は春夏とも甲子園球場の全国大会と無縁であり、「悲運のサウスポー」とも呼ばれた[1]。洗平自身は後年、「下半身の強化などを含めて、プロ(NPB)行きに必要な土台は光星(学院高校)だったから身に付けられた」と語っている[4]。入学時から2年生だった1995年まで監督を努めていた津屋晃曰く、洗平のボールの威力、体の強さは天性のものだったという[1]。1996年度のNPBドラフト会議でも、東北地方では小野仁以来の「超高校級左腕」として指名候補に挙がっていたが[5]、実際にはどの球団からも指名されなかった。
東北福祉大学時代
高校からの卒業後に進学した東北福祉大学[1] では、自身と同じ左投手の吉見祐治・歌藤達夫と同期であった。山岡洋之が4年生エースで、その下に左腕・松修康がいてさらに、吉見が台頭するなど投手陣の層が厚く、入学当初は公式戦へ登板する機会がなかった。それでも、3年生になった1999年以降は本領を発揮し[1]、吉見に次ぐ2番手扱いながらエース級で活躍[6]。仙台六大学野球のリーグ戦で通算10勝無敗という成績を残したほか、4年生だった2000年には、春季リーグでの優勝し、吉見と最優秀選手となり全日本大学野球選手権での準優勝を経験した。在学中の3学年先輩に鈴木郁洋、1学年先輩に奈良将史、1学年後輩に石原慶幸、2学年後輩に木谷寿巳・橋本健太郎、3学年後輩に岸田護・中村公治などがいる。
大学4年時の2000年には、仙台六大学秋季リーグでの優勝を経て臨んだ明治神宮野球大会の北海道・東北地区王座決定戦で、北海学園大学打線から19三振を奪った。大学通算成績は10勝1敗、防御率0.84で[3]、この好投でNPB球団のスカウトから再び注目され[1]、大会後のNPBドラフト会議で、当時存在していた逆指名制度を通じて中日ドラゴンズへ入団することを宣言[6]。ドラフト会議当日に中日から2位で指名され[3]、契約金1億円+出来高5000万円、年俸1300万円(金額は推定)という条件で入団に合意した[7]。背番号は32[8]。六戸町では初のプロ野球選手であることから、年末には町内で激励会が開催された[9]。この会議では、吉見も逆指名制度を通じて横浜ベイスターズを逆指名し[6]、2位指名を受けて入団した。また中日は会議前、2位で洗平を獲得する方針を決めた一方、1位では立命館大学の山田秋親を獲得することを目指していたが、山田は福岡ダイエーホークスを逆指名したため、中日は1位指名枠で逆指名制度の対象にならない高校生投手を指名する方針に切り替え[10]、春日部共栄高校の中里篤史を1位指名した[3]。
プロ入り後
2001年には、春季キャンプのスタートを一軍(北谷組)で迎えたが[11]、ブルペンでの投球練習で最初から暴投が相次いだ[1]。当時の地元・青森県の県紙『東奥日報』では「ブルペン入り初日は球が上ずりっぱなし、翌日は8球中7球が捕手の手に届かないほどの大暴投」と報じられている[1]。その後も、ブルペンへ入るたびに極度の制球難を露呈。捕手のミットを目がけて投げ込んだ球が、隣の捕手のミットに入ったという話もあったという[1]。あまりの制球難から、ヘッドコーチの山田久志から「出て行け」と言われたこともあり[12]、キャンプの途中から二軍の読谷組に回った[13]。この年には二軍でウエスタン・リーグ公式戦25試合に登板した[1]。同年オフには年俸1080万円(前年比120万円減額)で契約更改した[14]。
2002年は二軍の読谷組で春季キャンプを迎え[15]、十数試合に登板[1]。二軍で投球フォームの修正に取り組んだものの、制球力の向上には至らなかった[1]。同年オフには前年比110万円減額となる年俸970万円で契約更改した[16]。
2003年は春季キャンプを一軍(北谷)スタートで迎えるが[17]、10月14日に球団から戦力外通告を受け、ウェイバー公示された[18]。一軍登板は1試合もなく、また光星学院高校時代に続いて、オープン戦やウエスタン・リーグの公式戦でも阪神甲子園球場のマウンドに立てなかった[19]。
前述した制球難については、入団当初「極度の緊張によるイップスが原因である」と報じられていた[1]。本人曰く、極度の緊張でボールを離す感覚を突然忘れてしまったという[1]。
アマチュア球界への復帰後
愛知県内の会社に勤務しながら[1]、2004年から社会人野球の硬式野球クラブ 東海REXでプレー[1]。しかし、制球難は相変わらずで、ベーブルース杯では打者の頭に死球をぶつけたこともあった。チームが東海地区の第3代表として出場した第32回社会人野球日本選手権大会(2005年)では、日本生命との2回戦に救援で登板。
2007年シーズン限りで現役を引退したことを機に、東海REXを退部した。
現役引退後
千葉県船橋市に転居。東海REX在籍中の2004年に結婚すると、その年に長男を授かったことを皮切りに3児(いずれも男児)をもうけている[19]。会社勤めのかたわら、長男が所属した少年野球チームでコーチを務めたことがきっかけ[1] で、2013年に学生野球資格の回復へ向けた講習会に参加。2014年4月8日付で日本学生野球協会から資格回復の適性を認定されたことによって、同協会に加盟する高校・大学の硬式野球部での指導が可能になった[1][20]。
選手としての特徴
地肩が強く、大学時代は打者の手元で伸びる球速140 km/h台のキレの良い速球が持ち味と評されていた[6]。担当スカウトの山本曰く、初速と終速がほとんど変わらない速球が持ち味で、石井一久に似たタイプだった[6]。本人もプロ入り当時、石井のように三振を取れる投手を目標に掲げ、145 km/hの速球をより上積みしたいと語っていた[21]。
プロ入り当初、伊良湖で行われた新人合同自主トレーニングでは立ち投げの投球を見た投手コーチの鹿島忠、高橋三千丈から「力のある球を投げている」「岩瀬が新人で入ってきた時より、球の切れはいい」と評されていた[22]。また暴投を繰り返したキャンプでも、腕が縮まず、下半身で上体を勢いよく引っ張るフォームと伸びのある速球を、監督の星野仙一から「いい球投げるわ」と評されていた[23]。
人物
苗字の洗平は、出身地の六戸町を中心に、「日本国内で40人程度しか付けていない」とされるほど珍しい苗字である[24]。
前述したように、光星学院高校時代の夏には3年とも青森大会決勝で敗れていることから、高校球界に関する報道や特集で当時の洗平を「不運のエース」と称することがある[19]。
家族
一卵性双生児の兄として出生。実弟の隼人(はやと)も元野球選手(捕手)で、兄の竜也と揃って光星学院高校と東北福祉大学へ進学した後に、2001年から2005年まで社会人野球の東北マークスに在籍していた。東北福祉大学時代までは控え捕手だったが、東北マークスでは正捕手の座をつかんでいる。
長男・次男とも現役の野球選手で、2人とも竜也・隼人兄弟の母校に当たる八戸学院光星高校へ進学。いずれも、在学中に硬式野球部へ在籍していて、竜也も隼人も果たせなかった全国高等学校野球選手権大会への出場を成し遂げている。長男は右投手で、佐倉リトルシニアに所属していた中学3年時(2019年)にシニアリーグの全国選抜大会で優勝[19]。2歳下の次男は竜也の現役時代と同じ左投手で、長男に続いて佐倉リトルシニアへ在籍すると、リトルシニア関東連盟の最優秀選手を受賞している。ちなみに、長男は2020年・次男は2022年に八戸学院光星高校へ入学。2022年には兄弟揃って第104回全国高等学校野球選手権大会へ出場した[25]ほか、長男が國學院大學へ進学した2023年には、次男が第105回全国高等学校野球選手権記念大会で阪神甲子園球場のマウンドに再び立っている[26]。
詳細情報
年度別投手成績
- 一軍公式戦出場なし[1]
背番号
- 32 (2001年 - 2003年)