津田正信
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正信の出自について、津田村尊光寺所蔵の「国見城主歴代略縁」には楠木正成の「世々ノ孫」とあり[3]、『紀伊続風土記』には正成の3代の孫とも、正成の子[4]である正儀の子とも記される[5][6]。正信の時に初めて津田氏を称したという[7]。
延徳2年(1490年)、河内国交野郡の津田(現在の大阪府枚方市東部)に到来した正信は同地の国見山に津田城を築き[8]、平安時代末期より[9]この地を支配した中原氏に取って代わったとされる[8]。正信は津田村・尊延寺村・芝村・穂谷村の4村を領し[10]、文亀3年(1503年)4月20日、87歳で死去した[1]。
正信の跡は子の備後守正忠が継ぎ、その跡を正忠の長子・周防守正明が継ぐ[11]。正明は三好長慶に従い、津田地域に加えて牧八郷(枚方市中西部)や友呂岐六郷(大阪府寝屋川市北部)を安堵され[12]、合わせて一万石を支配したとされる[13]。正明の子の主水頭正時は、天正3年(1575年)に織田信長に津田城を焼かれて、拠点を麓の本丸山城に移し、天正10年(1582年)の山崎の戦いで明智光秀に味方して没落した[14]。正時の子・新八郎正胤は、元和元年(1615年)の大坂の陣で豊臣方についたため山城国八幡に幽居することになり、それ以後、津田氏は津田に戻らなかったとされる[15]。
なお、正信を含む津田城主の津田氏は同時代史料では姿が見えず、後世の由緒書からその経歴が築かれた[16]。しかし、これらの由緒書は17世紀末以降の津田山[注釈 1]をめぐる山論において、自陣営を有利にするために作られたものであり、津田城の由緒や津田城主の津田氏は後世の創作であると指摘されている[18][注釈 2]。
また正信は、種子島から根来に鉄砲を伝えたとされる紀州の津田監物一族の祖ともいわれる[22]。この紀州津田氏と正信のつながりは18世紀後半以降に唱えられるようになったと考えられる(後述)。