流敏晴
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小倉商業高校では、2年生の時に1965年秋季九州大会県予選で県北部決勝まで進むが小倉高に敗退。翌1966年春季九州大会県予選では2回戦で八幡高を相手に7回コールドながら完全試合を達成して注目される。同年夏の甲子園県予選では準々決勝で柳川商に惜敗、甲子園には出場できなかった。
1966年第1次ドラフト会議で阪急ブレーブスから2位指名を受け入団。足立光宏、山田久志に続くアンダースロー。飄々とした風貌から投げられるシュート、カーブを武器に6年目にプロ入り初勝利を挙げる。
1976年に引退後も阪急の球団職員として残り、チーム付スコアラーとして活動。球団がオリックスになったのち、1993年からは編成部に異動し、トレードやスカウト活動に従事。2005年には編成部長に就任。2008年に定年を迎えたあともスカウト活動を継続していたが、2014年12月末日をもって契約満了に伴い退団した[2]。
その後2015年1月に学生野球指導資格を回復し、同年4月に硬式野球部が創部された長崎国際大学の初代監督に就任した[2][3][4]。2016年より九州地区大学野球連盟に加盟し、北部九州ブロック2部リーグ参戦。春季は2位にチームを導いた[5]。同年の秋季リーグのさなかの9月15日、胸部大動脈瘤破裂のため急逝。68歳没[1]。指揮官を失った長崎国際大ナインは、毎試合、流の遺影に黙祷を捧げてから試合に臨み、参戦1年目にして秋季リーグ優勝、1部昇格を果たした[5]。