浦賀水道
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歴史
『古事記』や『日本書紀』に記された日本神話によれば、日本武尊の東征において、相模から上総に渡ろうとした際、突然暴風が起こって海が荒れ進退窮まる。そこで、后の弟橘媛が尊に替わって海に入ると暴風が収まり、この水路を馳水(走水)と名づけたと伝えられている。
鎌倉時代から鎌倉街道の交通路として利用されていた。東京湾と同様、浦賀水道も後北条氏と里見氏の水軍の争いの舞台となった。
江戸時代に入ると海上交通路としての重要性を増し、1720年には西岸の港町浦賀に奉行所がおかれた。1853年には、アメリカ合衆国から黒船が来航し、1866年に結ばれた江戸条約では、開港した横浜港への重要な航路として観音埼灯台の設置が決定、日本初の洋式灯台として1868年に点灯する。
明治時代には国防上も重要な海域となったため、浦賀水道を囲む形で東京湾要塞が造られ、東京湾との境には3つの海堡が建設された。しかし、1923年の関東大震災により第二海堡と第三海堡は使用不能となり、第三海堡堡は2007年8月までに撤去された。
第二次世界大戦後は経済発展とともに交通量が増加、各種船舶が渋滞し危険な状態になっていたため、1977年(昭和52年)に海上保安庁東京湾海上交通センター(とうきょうマーチス)が設置され、航行管制を行っている。
