富津岬

千葉県の岬 From Wikipedia, the free encyclopedia

富津岬(ふっつみさき)は、千葉県富津市東京湾に突出する砂嘴)。南房総国定公園に含まれる景勝地。岬一帯は千葉県立富津公園として整備され、日本の白砂青松100選関東の富士見百景に選定されている[1]。岬北側の富津干潟(ふっつひがた)は日本の重要湿地500指定地に含まれる[2]

場所 日本の旗 日本 千葉県富津市富津地先
座標 北緯35度18分46秒 東経139度47分7.8秒
概要 富津岬, 場所 ...
富津岬
明治百年記念展望台から見た富津岬(陸側)
富津岬の位置を示した地図
富津岬の位置を示した地図
場所 日本の旗 日本 千葉県富津市富津地先
座標 北緯35度18分46秒 東経139度47分7.8秒
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概要 富津干潟, 所在地 ...
富津干潟
富津岬展望台(明治百年記念展望台)
所在地 日本の旗 日本 千葉県富津市富津地先
面積 1.74 km2
湖沼型 干潟
プロジェクト 地形
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富津岬の空中写真。砂州の先端沖にある島は第一海堡国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成
中の島公園展望塔から望む富津岬、東京湾富士山(海側)

地理

小糸川河口付近から東京湾に面して南西方向に約5キロメートル(km)にわたって突き出した[3]。小糸川河口から岬の先端まで続く富津洲(ふっつす)と称される細長い砂州と、そこから磯根崎まで続く富津平野(ふっつへいや)と称される三角形の沖積平野から構成されるが、前者のみをもって「富津岬」と呼称する場合が多い[要出典]。砂州の先端沖には要塞として使用された第一海堡、第二海堡(人工島)がある。

約6キロメートル離れた対岸の三浦半島観音崎とともに東京湾内湾浦賀水道を区切る境界となっている。岬の北側では内湾の静かな波打ち際に174ヘクタール(ha)の富津干潟(ふっつひがた)と称される干潟を形成し、南側では外洋の荒波に対する防波堤の役割を果たしている。

湿地帯にはマガモカルガモが飛来する海浜植物の群落もあり、富津洲海浜植物群落地(ふっつすかいひんしょくぶつぐんらくち)として千葉県の天然記念物になっている[4]。南側には九十九里浜などに生育するコウボウムギケカモノハシなどの塩生植物群落が多く、砂浜の北岸にはホソバノハマアカザ、オカヒジキなどの内湾性野生植物が繁茂している[5]

成因

富津市の北側を流れる小糸川の土砂が、内湾を時計回りする潮汐流の働きで砂州を形成し、そこに外洋から磯根崎の付近に流れ込んだ土砂が重なる形で堆積面を形成していったのが富津平野の原型であると考えられている。その後の隆起などによって富津平野は段丘化し、そこへ更なる土砂の蓄積が加わることによって富津平野の先端に砂洲が成長した結果、尖角岬を持つ富津洲が形成されたと考えられている。

歴史

寛政の改革で知られる白河藩主の松平定信は、外国船の来航に備えて富津岬に台場を設置する必要性を唱えた。江戸幕府がこれを採用したのは定信失脚後の1810年文化7年)であり、最初の駐屯は主唱者とされた白河藩に命じられることとなった。1821年文政4年)には駐屯藩のための陣屋が設置された[6]

1882年明治15年)以後、富津洲は大日本帝国海軍の軍用地となり、沖合に第一海堡と呼ばれる人工島が築かれたが、土砂の堆積と関東地震による隆起によって第二次世界大戦後の一時期まで富津洲と地続きになっていたこともある[広報 1]。戦後は千葉県に払い下げられて県立富津公園となり、1953年昭和28年)に昭和天皇香淳皇后を招いた全国植樹祭の会場となった[7]。現在岬の先端近くには展望台などが設置されている。

その他

気象庁は富津岬西端を津波予報区における境界として定めており、富津岬西端以北の東京湾沿岸を東京湾内湾、富津岬西端以南の千葉県沿岸(野島岬まで)を千葉県内房としている[8]

ギャラリー

アクセス

脚注

関連項目

外部リンク

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