海瑞
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各職を転々とした後、嘉靖45年(1566年)、戸部主事のとき、嘉靖帝の道教への傾倒ぶりを上疏して激しく諫めたため投獄された。嘉靖帝は道教に凝り不老長寿の術に没頭しており、長く政務を見なかった。国が内憂外患に襲われている中、君主としての義務を果たしておらず、誰も諫めるものがいない中で、海瑞は敢えて臣下として忠義のために君主へ諫言を行ったのである。
この時、必ず彼を捕縛するように厳命した嘉靖帝に対して、宦官の黄錦は「この方は上訴にあたり、棺桶を買い妻子に別れを告げ、死を覚悟しています。逃げるような人ではありません」と言上している。嘉靖帝はこの年の12月に道教の方士の献上した丹薬を服用し急死している。海瑞は釈放されもとの官職に就き、大理寺丞に昇進した。
嘉靖帝の後を継いだ隆慶帝・万暦帝の時期、張居正が政権の座についていた頃は海瑞は要職から締め出されていたが、その死後に南京吏部右侍郎、南京右僉都御史を歴任した。彼の謹厳ぶりは相変わらずで、万暦帝に対しても上疏を通じて政策提言を行っているが、その意見は聞き届けられなかった。在職のまま没。墓は現在の海南省海口市竜華区海墾街道の浜涯村にあり、観光名所となっている。

