姚文元
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父は作家・翻訳家の姚蓬子。復旦大学で学び、延安に潜入した後、山西省で人民解放軍に加盟。
1948年に中国共産党へ入党。1951年、新民主主義青年団上海市工作委員会の幹部となり、上海の党地区委員会で宣伝工作に携わる。1955年に胡風を批判[注釈 1]した『分清是非、劃清界限』を発表し、張春橋の目に留まり「解放日報」の解説委員となる。更にその評論活動から1950年代中頃までに毛沢東の知遇を得た。
1965年11月10日の「文匯報」に「評新編歴史劇『海瑞罷官』」(「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」)を発表。翌1966年5月10日の「文匯報」と「解放日報」にも『評「三家村」──「燕山夜話」「三家村札記」的反動本質』(『三家村』を評す──「燕山夜話」「三家村札記」の反動的本質)を発表し、文化大革命の端緒を開いた[注釈 2]。これを契機に「解放日報」編集委員・党上海市委員会宣伝部長と出世し中央文革小組の一員にまでなった。その後も党上海市委員会第二書記・党政治局委員を歴任し、文化大革命をイデオロギー面から支えた。
1976年10月に他の四人組と共に逮捕されて隔離審査され、1981年1月に最高人民法院特別法廷で、懲役20年・政治権利剥奪5年の判決を受ける。1996年に出所し、2005年12月23日に糖尿病により74歳で死去した。
釈放後
1996年1月、姚文元は刑期を満了し、釈放された。10年以上を過ごした独房に立った彼は、辺りを見回し、深くため息をついた。それからゆっくりと囚人服を脱ぎ、家族から送られてきた新しい中山服を身につけた。刑務官が重々しい鉄の扉を開けると、姚文元は刑務官に「長い間、本当にありがとうございました」と挨拶した。刑務官は厳しい口調で「口に出すな。戻ってきたらよく考えて、二度と悪いことをしないように」と言った。姚文元は何度も頷き、「その通りだ!その通りだ!」と繰り返した。荷物を抱え、刑務官の後について刑務所事務所へ行き、釈放手続きをすべて済ませると、外の明るい日差しを眺めながら、喜びに満ちた表情で門へと向かった。そこには既に家族が待っていた。[1]
姚文元は回顧録を出版するために当局に申請したが、却下された。
回顧録が発禁となった後、姚文元は、関係当局に対し、自身の体験、そして自らが関与し目撃した歴史的事実を回想と物語の形で記録するよう再度要請した。要請は認められ、データアシスタントまで任命された。 姚文元は、約8ヶ月をかけて5万語に及ぶ『回顧と反省』という著書を執筆し、いくつかの重要な歴史的出来事の真偽を明らかにした。本書はいくつかの歴史的真実を明らかにしているが、これは姚文元の回顧録の要約版である。[1]
姚文元は釈放後、特別な待遇を受け、ボディーガードと生活介護人、さらには毎月4,000元の生活手当を受け取り晩年を過ごしていた。この金額は1990年代後半では平均以上の額とされ、当時の一般労働者の月収をはるかに上回っていた。[2]

