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深尾道典

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深尾 道典(ふかお どうてん[1]、1936年6月26日 - 2023年9月22日[2])は、日本の映画監督、脚本家[1][3]。本名:ふかお みちのり[2][3]。滋賀県神崎郡五個荘町(現東近江市)出身[3][4]。

生年月日 (1936-06-26) 1936年6月26日
没年月日 (2023-09-22) 2023年9月22日(87歳没)
国籍 日本の旗 日本
概要 ふかお どうてん 深尾 道典, 生年月日 ...
ふかお どうてん
深尾 道典
生年月日 (1936-06-26) 1936年6月26日
没年月日 (2023-09-22) 2023年9月22日(87歳没)
出生地 滋賀県神崎郡五個荘町(現東近江市)
国籍 日本の旗 日本
職業 映画監督、脚本家
活動期間 1961年 - 1996年
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経歴

六人兄弟の三男として五個荘町(現東近江市)に生まれる[4]。両親とも小学校教師[4]。家は貧しかった。滋賀県立八日市高校野球部でサードを守り、二年の夏、京滋代表として第35回夏の甲子園に出場した[3]。レギュラーとして 甲子園の土を踏んだ映画監督は深尾ただ一人とされる[4]。早稲田大学第一文学部文学科美術専攻に進学し、20世紀美術史を専攻[4]。実家からの仕送りを米だけで、学費と生活費を東ハトの工場のアルバイトで凌ぐ。学生運動にも活発に参加[5]、警職法反対闘争や60年安保闘争では機動隊に何度も殴打された[4]。卒業後は美術館か博物館の学芸員になり、美術史を生涯の仕事にしたいと願ったが、学芸員の求人はなく、たまたま就職課の掲示板で東映の求人を見つけ、学校推薦で試験を受け[3]、1961年大学卒業と同時に東映に入社した[3]。東映京都撮影所(以下、東映京都)の助監督として河野寿一、松田定次、マキノ雅弘、小沢茂弘、今井正、中島貞夫、加藤泰、山下耕作らに就く[3][4]。入社一年目で心酔する大島渚が東映京都で『天草四郎時貞』を撮ることになったが、監督・助監督が全員反対する中、強く参加を希望し[4][5][6]、フォースに加えられた[5][6]。深尾は大島のシナリオを全て読んでおり、以降、大島と親しい間柄になる[5]。1968年の大島監督『絞死刑』では東映の所属でありながら、大島から脚本を依頼され、深尾脚本を基に共同で脚本が完成した[3][4]。同作で第42回キネマ旬報ベスト・テン脚本賞受賞[2]。『愛のコリーダ』も原型シナリオを深尾が書いた[4][5]。

1968年に石井輝男が東映京都で撮った『徳川女系図』から始まる東映京都の助監督による"石井輝男バッシング"ではその先頭に立った[4]。1970年、未映画化シナリオ集『曠野の歌―深尾道典作品集』(大光社)が刊行される。当時も現在も未映画化シナリオ集が出版されるのは稀有とされる[4]。

1971年に俳優座を脱退した三戸部スエ、菅貫太郎、市原悦子、原田芳雄が出演し、塩見哲が演出する「黄旗社」の旗揚げ公演のための戯曲『新家族ー現代聖者傳考ー』を書き下ろし、東京大手町の農協ホールで上演された[4]。

1973年、当時の岡田茂東映社長が指示した低予算ポルノ「東映ニューポルノ」『女医の愛欲日記』で監督デビュー[7][8][9][10]。新約聖書『ルカの福音書』の引用を持ち込んだり、放り投げたようなエンディングに東映首脳が激怒[4]。1977年に『好色源平絵巻』を撮った後は、監督の機会を与えられず[3]。脚本を手掛けた『女子大生失踪事件 熟れた匂い』は監督が荒井美三雄に、『史上最大のヒモ 濡れた砂丘』は監督が依田智臣になった[4]。この『女医の愛欲日記』『女子大生失踪事件 熟れた匂い』『史上最大のヒモ 濡れた砂丘』の3本は、実際に起きた事件を題材にしており「深尾道典実録ポルノ三部作」としての評価もある[4]。

1974年、大島渚から「阿部定事件」の脚本執筆を依頼され、深尾は「東映ニューポルノ」の延長線上にある題材と判断し引き受けた。深尾は資料を読み込み、精力的に取材を重ね、人生に好ましい兆しが見えかけても、いつの間にか最悪の事態になっている阿部定の人生の流転を描き、自身の人生を投影させたが、大島とアナトール・ドーマンプロデューサーとの話し合いで、定の一生ではなく、定と吉蔵のコリーダを描くハードコアに方向転換したため、脚本に時間がかかり過ぎていたこともあって1975年8月に深尾は大島から呼び出され「今までのことはなかったことにしてくれ」と通達された。深尾が大島を罵ったことで12年続いた大島との蜜月が終わった[4]。

1980年前半に故郷湖東に戻り、両親を引き取った[4]。1981年から1982年にかけて唐十郎と映画の仕事をするようになり、1981年に起きたパリ人肉事件の映画化を提案[4]。深尾脚本、唐監督で東映に企画を持ち込むが、シナハンを終えた段階で東映が製作中止を決定[4]。唐は東映以外で製作しようと先に小説を書き、これが『佐川君からの手紙』として芥川賞を受賞した[4]。

1986年、東海テレビ制作、フジテレビ系列で放送された昼ドラマ『もめん家族』の執筆依頼を受ける。原作は主演・川谷拓三の妻・川谷克子の『わくわく子育て、もめん家族』で、川谷の東映京都での大部屋俳優時代を描く川谷夫妻の自伝的作品だが、深尾はこれを自身の東映京都の思い出を重ね合わせた。このドラマは川谷夫妻の名前を全国に広めた[4]。

1996年、60歳で東映を定年退職[4]。退職後は大阪や名古屋のシナリオ学校で教え、五個荘の公民館長を3年勤め、地元の名士になった[4]。映画人生の総決算として同郷の作家・外村繁の『日を愛しむ』を企画し、2009年クラウドファンディングで資金を調達するが、お金が集まらず頓挫[4]。以降は映画化されない膨大なシナリオ群を連作し、刊行し続けた[3]。

2010年代に入り[7]、名画座による東映ニューポルノの発掘と再評価があり[7][11]、2006年に『好色源平絵巻』がシネマヴェーラ渋谷で、2009年に『女医の愛欲日記』がラピュタ阿佐ヶ谷で上映されたが[4]、2010年に佐藤慶が亡くなり、その忍ぶ会の案内がラピュタ阿佐ヶ谷から「佐藤慶追悼特集」[12]としてチラシが深尾の元に届き、『女医の愛欲日記』が上映されることを知り、同館の支配人・石井紫に「上映は止めてくれ」と抗議[4][11]。インテリの深尾は俗臭芬芬たるポルノのことなど無かったことにしたかったと言われる[4]。さらに自身が監督脚本に関わった『女医の愛欲日記』『好色源平絵巻』『史上最大のヒモ 濡れた砂丘』『女子大生失踪事件 熟れた匂い』の4本に対して版権を持つ東映に、上映、ソフト化、配信の一切の禁止を言い渡した[4]。『女子大生失踪事件 熟れた匂い』の監督・荒井美三雄が「脚本家にそんな権利はない」と東映映像版権部に抗議するが、トラブルを避けたい東映は深尾の要望に従った[4]。その後、深尾作品の常連俳優・中林章が深尾夫人を説得するまで以降、11年間上記四作品は封印状態にあった[4][7]。

監督作品

映画

  • 女医の愛欲日記(1973年、東映京都)※兼脚本  
  • 好色源平絵巻(1977年、東映京都) ※兼脚本[13] 

脚本作品

映画

テレビ

戯曲

  • 新家族ー現代聖者傳考ー(黄旗社、1971年[4])
  • 望郷・近藤嵩蔵伝(1995年[1])

脚注

外部リンク

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