太田荘・佐貫荘の戦い
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長禄2年(1458年)5月(または6月)、足利政知(将軍・足利義政の兄)が関東に下向し、伊豆に入国した(堀越公方)。これに合わせ、室町幕府は関東や奥羽、東海の大名・国人衆に動員をかけ、大規模な足利成氏討伐計画を進めていた[2][3]。
長禄3年(1459年)10月、政知や上杉氏らは、成氏方に大規模な軍事攻勢をかけようとした[4]。このとき、上杉方は一門や有力被官など動員できる勢力を全て集めていた[5]。また、堀越公方からも渋川義鏡が軍勢を率い、五十子陣に入っている[6]。
だが、奥州の伊達氏や白川結城氏、蘆名氏らは幕府から軍事催促を受けていたにもかかわらず、参陣していない[5]。また、幕府からは斯波義敏が援軍として送られるはずであったが、関東出兵を命じられた義敏が家臣の甲斐常治との戦いをはじめるなど、出兵に応じる意思はなかった[7]。そのため、上杉方は幕府の援軍がなかなか来ないことに焦りを感じ始めていた[6]。
10月14日、堀越公方及び上杉方は古河に進軍するさなか、武蔵の太田荘会下(えげ)において、成氏方と合戦を行った[1][6][8]。このとき、堀越方は渋川義鏡が、上杉方は山内上杉房顕や扇谷上杉持朝、越後の上杉房定ら軍が率いていた[6][9][注釈 1]。
10月15日朝、両軍は上野佐貫荘の海老瀬口において、夕刻には佐貫荘の羽継原(はねつぐはら)で戦闘を行った[1][6]。この羽継原での戦いは激戦であった[6]。
戦場が徐々に東に移動していることから、当初は上杉氏が優勢だったとみられるが[8]、やがて成氏方に敗北した[6][9]。
この合戦により、上杉方は四条(犬懸)上杉教房が海老瀬口で討ち死にした[1][10]。また、山内上杉氏も多くの戦死者・負傷者を出した[1]。敗れた渋川義鏡と岩松家純は豊島郡浅草まで退いてここに陣取ったほか、上杉房定は五十子陣に後退し、上杉持朝は本拠地の河越城まで逃れた[6][11]。
戦後
この戦いは、成氏方と上杉方のすべての力を叩きこんだ総力戦であり、その勝敗に関わらず、両者はともに疲弊した[12]。以後は古河と五十子で両軍がにらみ合って在陣する状況が長く続いた[12]。
長禄4年(寛正元年、1460年)4月、足利義政の感状が上杉方の武士らに対し、数多く発給された[13]。これは、上杉房顕や上杉房定が自身に従った配下の武士らの求めにより、各人に感状を出してほしいと義政に申請し、義政が応じた結果であった[13]。義政は感状を書き終えると、政知に御内書を出し、房顕の注進に応じて武士らに感状を出したので、心得ておくようにと指示を出している[13]。幕府が関東に大軍を派遣することが困難な状況で、義政は味方となる武士の心を引き付けておこうと最大限努力し、そのために多数の感状を書くことも厭わなかったことがうかがえる[14]。