渡田
神奈川県川崎市川崎区の町名
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地理
歴史
中世
川崎の地は中世から「河崎荘」として知られており、渡田も文献には残っていないものの、13世紀後半の銘が入った板碑や、「御正作」[注 1]といった地名から、中世には武士の館があったとみられている[11]。また、新田義貞が当地の不動尊に武運を祈願したと伝わる[12]ほか、義貞が戦死した後に、家臣であった亘新左衛門早勝がその形見を当地に持ち帰って供養を行い、のちには新田神社となったとされる[13]。
当地にある成就院の創建は文明年間であるとされる[12]が、境内から徳治2年(1307年)とある板碑が出土していることから、鎌倉時代に創建された可能性も考えられている[10]。
江戸時代
江戸時代の当地は天領であり、石高は、正保期の「武蔵田園簿」で766石あまり、「元禄郷帳」では797石あまり・「天保郷帳」・幕末の「旧高旧領取調帳」では845石あまりとなっていた[5]。賦役として、年貢以外にも、鷹狩用のオケラや、江戸城内で放すホタルの上納、さらには川崎宿への助郷も課されていた[5]。
用水としては二ヶ領用水を用いたが、下流にあって水が回らないことがあり、1821年(文政4年)には用水の下流に位置した川崎領の20村が団結して溝口村の名主宅を襲撃するという溝口水騒動が勃発している[5]。
明治以降
明治維新以降、当地は神奈川県に属し、行政上は渡田村→田島村→田島町→川崎市と推移していった。川崎が都市化・工業化していく中で、当地も、沿岸部(のちの南渡田町)が埋め立てられ日本鋼管の工場(のちのJFEスチール東日本製鉄所京浜地区)が設置される[14]、耕地整理により町が設置される、などの変化を経ていった[12]。
地名の由来
いくつかの説があるが、確定はしていない[10]。
沿革
- 1263年(弘長3年)- この年の銘がある板碑が成就院裏の墓地に残る[9]。
- 1333年(元弘3年)- 新田義貞、当地の不動尊に祈願すると伝わる[12]。
- 文明年間 - 成就院の創建と伝わる。
- 1821年(文政4年)- 溝口水騒動。
- 1837年(天保8年)- 天保の大飢饉。当地では村人653人中529人が飢えたと残る[5]。
- 1855年(安政2年)- 安政の大地震。当地では家屋128軒が倒壊[注 2][12]。
- 1868年(明治元年)- 明治維新。当地は神奈川県に属する。
- 1874年(明治7年)- 大区小区制により、当地は第4大区第3小区に属する[12]。
- 1877年(明治10年)- 田島小学校が開校[5]。
- 1889年(明治22年)- 町村制の成立により、田島村が成立。渡田はその大字となる。
- 1913年(大正2年)- 南部の埋立地で日本鋼管の工場が操業を開始[15]。
- 1923年(大正12年)
- 1927年(昭和2年)- 田島町が川崎市に編入される。川崎市渡田となる。
- 1936年(昭和11年)- 耕地整理により、渡田町・渡田山王町・渡田向町・渡田新町・東渡田が分立[12]。
- 1938年(昭和13年)- 南渡田町が分立[12]。
- 1944年(昭和19年)- 川崎市電が開通。当地に乗り入れる。
- 1969年(昭和44年)- 川崎市電が全廃される。
- 1970年(昭和45年)- 住居表示が実施される。
- 1972年(昭和47年)- 川崎市が政令指定都市に移行。川崎市川崎区渡田1丁目~4丁目となる。
町名の新旧対照
1970年(昭和45年)7月1日に住居表示が実施される前の町丁は、次のようになっていた[16]。なお、特記のない場合、各丁目に含まれる施行前の町丁は、それぞれその一部である。
世帯数と人口
学区
事業所
交通
施設
- 明王山成就院
- 新田神社
- 川崎市立田島小学校
