1858年(安政5年)下総佐倉藩の家老職で、代々城代を勤めた家柄に生まれる。司法省法学校に進む。後の法学者、寺尾亨は法学校の同窓で親友、その妹、達子と結婚した[3]。1884年(明治17年)に卒業後、司法官になり、東京控訴院判事、千葉・仙台・横浜・東京の各地方裁判所長などを歴任した。
その後、朝鮮大審院の院長、日韓合併後は朝鮮高等法院の院長を勤める。高等法院長時、三・一運動の指導者らを裁く。被告達は反乱罪で起訴されたが、裁判官らはこれを騒擾罪として軽刑に処したことが八十年後の今日評価されることになる。
定年後の1924年(大正13年)1月2日、貴族院勅選議員に選任され[4][5]、死去するまで在任した[2][6]。