湯浅瑠璃
From Wikipedia, the free encyclopedia
備前の生まれ。幼少の頃、父の瀧陳良が江戸に赴任されるのに随って、江戸で数年過ごし、8歳の時備前に戻ることになったが、その帰路の道中にある山や川の名前をすべて覚えていたという[1]。
元禄10年(1697年)、28歳の時、湯浅英(字は子傑、通称は亦右衛門)に嫁し、常山を産んだ[1][2]。夫の英は小柄だったので、才知に溢れかつ体が大きい瑠璃が嫁に選ばれたといわれ、行水中に夕立に襲われた夫を盥ごと家の中に運んだという伝説もある[2]。
夫が目付の任で江戸に赴きしばしば家を空ける間も、家事を任され家をよく守り、享保16年(1731年)夫が病を得て職を辞すと[3]、6年間必死に看病に尽くした[1][4]。
夫の死後は、読書をし和歌を詠み箏を奏して、奢侈を避け倹約に努めつつも窮する者を助け、妻に先立たれ貧窮する弟の子供を養子に迎えた[1]。常山の教育にも夫と共に心を注ぎ[5]、幼少の頃には、忠孝の道を説き、英雄豪傑の伝記を読み聞かせ、清少納言と中宮定子の香炉峰の雪の故事をめぐるやりとり[注釈 1]を語り聞かせ、夫の死後、常山が結婚するまでは交友・交際に目をかけ、甘やかしすぎず、間違いがあれば叱った[1][4]。
病になり床についても、読書を欠かさず、貝原益軒の木曽紀行を読んでいた[1][4]。寛保元年(1741年)に死去[1]。
瑠璃の話は、明治時代には良妻賢母の模範として列女伝や修身の教材などにしばしば取り上げられた [7][8][9][10][3]。