源雅賢
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後白河院政期初頭の永暦元年(1160年)叙爵し、上総介に任官する。応保2年(1162年)祖父の修理大夫・源資賢が二条天皇に対する呪詛の嫌疑を受けて信濃国への流罪に処されるが、通家も連座して解官された。
のち許され、右兵衛権佐を経て、嘉応2年(1170年)右近衛少将に任ぜられる。その後は嘉応3年(1171年)正五位下、承安3年(1173年)従四位下、安元2年(1176年)従四位上と順調に昇進した。しかし、治承3年(1179年)治承三年の政変が発生し平清盛によって後白河院政が停止されると、院政派の筆頭格であった祖父の権大納言・源資賢とともに解官の上で京外に追放されてしまった。
治承5年(1181年)右少将に還任すると、養和2年(1182年)正四位下に叙せられるとともに、祖父の資賢の権大納言辞任の替わりに雅賢は右近衛中将に昇任される。しかし、寿永2年(1183年)法住寺合戦が発生し、源義仲によって後白河法皇が幽閉されると、雅賢は再び解官された。
寿永3年(1184年)正月に源義仲が敗死すると同年4月に雅賢は右中将に還任される。さらに、翌元暦2年(1185年)6月に蔵人頭に補せられ、12月には参議に任ぜられ公卿に列した。参議昇進時に中将を解かれて讃岐権守のみを兼帯し、文治3年(1187年) に従三位に至っている。
建久元年(1190年)全ての官職を辞任し、建久3年(1192年)3月15日に自らの病気と後白河法皇の崩御を理由として出家。同年9月に薨去。享年45。
人物
官歴
『公卿補任』による。
- 永暦元年(1160年) 12月29日:叙爵(無品聡子内親王令爵)、上総介
- 応保2年(1162年) 6月15日:解官
- 永万2年(1166年) 8月24日:土佐守(止家光任之)
- 仁安2年(1167年) 8月18日:復任
- 仁安3年(1168年) 11月20日:従五位上(資賢卿大嘗会国司近江権守賞)。12月13日:右兵衛権佐
- 嘉応2年(1170年) 7月26日:右近衛少将
- 嘉応3年(1171年) 正月13日:正五位下(朝覲行幸賞、院御給)。4月7日:兼土佐守(重任宣旨)。4月21日:兼備中守
- 承安3年(1173年) 正月5日:従四位下、少将守如元
- 承安5年(1175年) 正月22日:兼備中守(重任)
- 安元2年(1176年) 12月5日:従四位上(除目次)
- 治承3年(1179年) 11月17日:解官。11月18日:出境外
- 治承5年(1181年) 5月26日:還任右少将
- 養和2年(1182年) 3月8日:正四位下(臨時)、右近衛中将(資賢卿辞権大納言申任之)
- 寿永2年(1183年) 8月16日:兼播磨守(院分)。11月28日:解官
- 寿永3年(1184年) 4月7日:還任右中将
- 元暦2年(1185年) 6月10日:蔵人頭(頭中将)。12月29日:参議、元蔵人頭右中将
- 文治2年(1186年) 2月30日:兼讃岐権守
- 文治3年(1187年) 11月8日:従三位(朝覲行幸賞)
- 建久元年(1190年) 11月24日:辞退
- 建久3年(1192年) 3月15日:出家(本病之上依法皇御事也)。9月:薨去