源雅賢

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源 雅賢(みなもと の まさかた、久安4年(1148年) - 建久3年(1192年)9月)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての公家宇多源氏左近衛少将源通家の子。官位従三位参議

後白河院政期初頭の永暦元年(1160年叙爵し、上総介に任官する。応保2年(1162年)祖父の修理大夫源資賢二条天皇に対する呪詛の嫌疑を受けて信濃国への流罪に処されるが、通家も連座して解官された。

のち許され、右兵衛権佐を経て、嘉応2年(1170年右近衛少将に任ぜられる。その後は嘉応3年(1171年正五位下承安3年(1173年従四位下安元2年(1176年)従四位上と順調に昇進した。しかし、治承3年(1179年治承三年の政変が発生し平清盛によって後白河院政が停止されると、院政派の筆頭格であった祖父の権大納言・源資賢とともに解官の上で京外に追放されてしまった。

治承5年(1181年)右少将に還任すると、養和2年(1182年正四位下に叙せられるとともに、祖父の資賢の権大納言辞任の替わりに雅賢は右近衛中将に昇任される。しかし、寿永2年(1183年法住寺合戦が発生し、源義仲によって後白河法皇が幽閉されると、雅賢は再び解官された。

寿永3年(1184年)正月に源義仲が敗死すると同年4月に雅賢は右中将に還任される。さらに、翌元暦2年(1185年)6月に蔵人頭に補せられ、12月には参議に任ぜられ公卿に列した。参議昇進時に中将を解かれて讃岐権守のみを兼帯し、文治3年(1187年) に従三位に至っている。

建久元年(1190年)全ての官職を辞任し、建久3年(1192年)3月15日に自らの病気と後白河法皇の崩御を理由として出家。同年9月に薨去。享年45。

人物

宇多源氏の伝統である音楽に優れ、郢曲和琴に通じたほか、蹴鞠・馬も能くした[1][2]

官歴

公卿補任』による。

系譜

脚注

参考文献

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