源泰光
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従五位下に叙爵後、後白河院政期後期の文治3年(1187年)兵部権少輔に任ぜられ、建久2年(1191年)従五位上に叙せられる。
後鳥羽院政期に入ると建久5年(1194年)正月に紀伊介を兼ねるが、同年4月に兵部権少輔を辞す代わりに正五位下に昇叙された。紀伊介の任期満了後は散位になったと見られるが、建仁3年(1203年)前権大納言・藤原泰通の知行国である加賀守に任ぜられる。泰通の母は源師頼の娘であるため泰光にとっては叔母にあたり、泰通の取りなしで加賀守に任ぜられた可能性がある。また泰光と泰通の通字が同じく「泰」なのは、偶然の一致ではないと考えられる。
承久3年(1221年)承久の乱終結後の12月に27年振りに昇叙されて従四位下に昇進する。その後も昇進は遅滞し、嘉禎2年(1237年)今度は16年ぶりの昇叙で従四位上となるなど、村上源氏の嫡流格ながら、他の源師頼の子孫らと同様、長らく官途は不遇であった。
後嵯峨院政期に入ると、宝治2年(1248年)従三位に叙せられ、82歳という極めて高齢ながら公卿に列す。これは、後嵯峨院による村上源氏取立て策の一環によるものと考えられる。翌建長元年(1249年)出家。