源俊房

From Wikipedia, the free encyclopedia

時代 平安時代中期 - 後期
生誕 長元8年(1035年
改名 俊房→寂俊(法名)
 
源 俊房
春日権現験記』(高階隆兼筆)
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 長元8年(1035年
死没 保安2年11月12日1121年12月23日
改名 俊房→寂俊(法名)
別名 堀川左大臣
官位 従一位左大臣
主君 後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇鳥羽天皇
氏族 村上源氏
父母 父:源師房、母:藤原尊子藤原道長の五女)
養父:藤原頼通
兄弟 妧子澄子、女子、俊房顕房麗子仁覚師忠、実覚、藤原宗実室、藤原師実
養兄弟:広綱通房橘俊綱覚円
定綱忠綱寛子師実嫄子信家
正室:娟子内親王後朱雀天皇の第二皇女)
藤原朝元の娘、源実基の娘
源基平の娘、平重経の娘
藤原重房の娘
勝覚証観方子師頼師時師俊忠時実運俊円師重宗光実縁仁寛俊顕俊智寛雲寛真寛壱藤原宗俊室、任子源師能
養子:俊覚
テンプレートを表示

源 俊房(みなもと の としふさ)は、平安時代中期から後期にかけての公卿能書家村上源氏右大臣源師房の子。官位従一位左大臣堀川左大臣とも称される。

後冷泉朝初頭の寛徳2年(1045年)伯父・藤原頼通の養子として元服し、従五位上直叙される。永承元年(1046年正五位下左近衛少将、永承2年(1047年)左近衛権中将、永承3年(1048年従四位下次いで従四位上、永承4年(1049年正四位下と急速に昇進し、永承5年(1050年)16歳で従三位に叙せられ公卿に列す。

公卿昇進後も、永承6年(1051年正三位天喜2年(1054年従二位、天喜5年(1057年参議と昇進を続ける。しかし、同年後朱雀天皇の皇女で3歳年上の前斎院娟子内親王と通じて勅許を得ずに結婚する事件を起こす[1]。これに対して、娟子内親王の同母弟である春宮・尊仁親王(後の後三条天皇)は怒り狂い[2]、後冷泉天皇からも勅勘を蒙り、俊房は蟄居を余儀なくされた。しかし、俊房が摂関家の縁者であることもあり、具体的な処罰までには至らなかった。

康平3年(1060年謹慎を解かれると[3]康平4年(1061年権中納言、康平7年(1064年正二位と再び昇進した。治暦4年(1068年)後三条天皇が即位すると、娟子内親王の降嫁事件で天皇から疎まれていた俊房は昇進が遅滞する[4]延久元年(1069年)検非違使別当を辞任すると、延久4年(1072年)には同母弟源顕房や従兄藤原忠家権大納言の昇進で先を越されてしまった。

白河朝に入ると、承保元年(1074年権大納言に昇任して再び顕房を抜き返し、承暦4年(1080年)大納言となる。永保2年(1082年右大臣藤原俊家出家した際、白河天皇は後任について中宮藤原賢子の実父である顕房を念頭に近臣の左中弁大江匡房と相談するが、かつて俊房に師事していた匡房の意見によって、結局俊房を任じたとの逸話がある[5]永保3年(1083年左大臣に昇任し、その後没するまでの約40年に亘って一上として公卿筆頭の座を占めた。

堀河朝寛治7年(1093年左近衛大将に任ぜられ、顕房とともに兄弟で左右大臣・左右大将を独占した。寛治8年(1094年従一位に至る。

永久元年(1113年輔仁親王護持僧を務めた子息の仁寛鳥羽天皇暗殺を企てたとされ、伊豆国への流罪となる。一方で、俊房と他の子息は暗殺計画には無関係で処罰すべきでないとの参議・藤原為房の主張により、俊房は連座を逃れるが政治的権力を失って失脚し、子息達とともに謹慎を余儀なくされる(永久の変)。翌永久2年(1114年)白河法皇の命令によって俊房は出仕を再開した。

保安2年(1121年)2月26日に出家法名は寂俊。最終官位は従一位左大臣。同年11月12日薨去享年87。

人物

朝廷儀式に関する先例故実に詳しく、また文才にも優れ[6]漢詩作品が『本朝続文粋』『中右記部類紙背佚名漢詩集』『扶桑古文集』などに残っている。勅撰歌人として、『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に4首の和歌作品が採録されている[7]。また、その優れた学才により村上源氏の最盛期を築いた[8]

俊房の日記は『水左記』と題され、現在判明しているところ康平5年(1062年)から天仁元年(1108年)まで綴られた。また能書でも知られた。

官歴

公卿補任』による。

源俊房の官歴表
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢[注 1] 事項
寛徳2年(1045年)3月4日11歳従五位上元服日、以左大臣養子也)
永承元年(1046年)2月13日12歳侍従
9月23日左近衛少将
11月13日正五位下大嘗会馨子内親王御給)
永承2年(1047年)1月28日13歳近江権介
12月13日左近衛権中将
永承3年(1048年)2月11日14歳従四位下(中将労)、兼近江介
12月7日従四位上(上東門院御給)
永承4年(1049年)2月5日15歳正四位下祐子内親王給)
永承5年(1050年)10月13日16歳従三位(上東門院行幸賞、父卿譲)、左中将如元
永承6年(1051年)2月13日17歳正三位(皇后宮初入御内裏賞)
永承7年(1052年)2月26日18歳兼近江権守
天喜2年(1054年)2月22日20歳従二位(左大臣譲)
天喜5年(1057年)3月30日23歳参議、中将権守如元
康平4年(1061年)12月8日27歳権中納言
康平7年(1064年)10月13日30歳正二位(父卿譲、行幸次上東門院賞)
康平8年(1065年)11月11日31歳右衛門督
治暦3年(1067年)5月12日33歳検非違使別当
治暦4年(1068年)12月29日34歳兼左衛門督
延久元年(1069年)5月2日35歳辞別当
承保元年(1074年)12月26日40歳権大納言
承保4年(1077年)閏12月5日43歳太皇太后宮大夫(太皇太后章子内親王
承暦4年(1080年)8月1日46歳大納言
永保元年(1081年)12月17日47歳陸奥出羽按察使
永保2年(1082年)12月19日48歳右大臣
永保3年(1083年)1月26日49歳左大臣
寛治7年(1093年)12月27日59歳左近衛大将
寛治8年(1094年)1月5日60歳従一位
3月辞大将
永長元年(1096年)1月26日62歳蒙輦車宣旨
保安2年(1121年)1月19日87歳左大臣上表
2月26日出家法名:寂俊)
11月12日薨去(左大臣従一位)

系譜

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI