源能有
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文徳天皇の皇子で、仁寿3年(853年)に時有・本有・載有ら兄弟とともに源姓を与えられ臣籍降下した。能有の多くの兄弟がこれと同様の道をたどり、その子孫は後世文徳源氏と呼ばれる。
貞観4年(862年)に従四位上に直叙されると、貞観8年(866年)加賀守、貞観11年(869年)大蔵卿を経て貞観14年(872年)には28歳にして早くも参議に任ぜられて公卿に列すなど、徐々に中央官界において頭角を顕し、弟の清和天皇それに続く陽成天皇の治世をよく輔けた。その能力は藤原基経からも評価され、その娘を娶っている。この間、元慶元年(877年)従三位、元慶6年(882年)中納言と順調に昇進するとともに、左兵衛督・左近衛中将・左衛門督・検非違使別当と武官も兼帯した。
宇多朝に入っても、引き続き寛平2年(890年)正三位、寛平3年(891年)大納言と順調に昇進する。宇多天皇の能有に対する信任は厚く、符宣上卿(太政官符を発給する際の上卿)として28回も名を連ね、『日本三代実録』編纂開始時には左大臣源融・右大臣藤原良世と先任の上卿2人がいるにもかかわらず撰国史所総裁を務めていること、寛平7年(895年)には位階昇進の人事草案を提出する擬階奏を行っている。いずれも、本来は摂関もしくは
人物
官歴
注記のないものは『六国史』による。
- 仁寿3年(853年) 6月11日:臣籍降下(源朝臣)
- 貞観2年(860年) 9月19日:賜山城国宇治郡荒廃地1町338歩
- 貞観4年(862年) 正月7日:従四位上
- 貞観5年(863年) 4月7日:次侍従
- 貞観8年(866年) 正月13日:加賀守
- 貞観11年(869年) 2月16日:大蔵卿
- 貞観12年(870年) 正月25日:美濃権守
- 貞観14年(872年) 8月25日:参議、大蔵卿美濃権守如元。8月29日:兼左兵衛督[2]
- 貞観15年(873年) 正月15日:兼美濃守[2]
- 貞観16年(874年) 2月29日:右大弁、兼備中権守[2]、余官如故
- 貞観17年(875年) 正月7日:正四位下
- 貞観18年(876年) 正月14日:兼左近衛中将、権守如元[2]
- 元慶元年(877年) 11月21日:従三位
- 元慶2年(878年) 正月11日:左衛門督
- 元慶3年(879年) 正月11日:兼美濃権守[2]。4月5日:検非違使別当[2]
- 元慶4年(880年) 正月11日:兼近江権守[2]
- 元慶6年(882年) 正月10日:中納言
- 仁和4年(888年) 9月9日:兼民部卿、検非違使別当如元、止左衛門督[2]
- 仁和5年(889年) 正月16日:兼右近衛大将[2]。4月:兼皇太子傅[2]
- 寛平2年(890年) 正月7日:正三位[2]
- 寛平3年(891年) 3月19日:大納言[2]
- 寛平4年(892年) 5月10日:始奏弁官雑事[2]
- 寛平5年(893年) 正月11日:兼按察使[2]。2月22日:兼左近衛大将[2]。4月13日:兼皇太子傅[2]
- 寛平7年(895年) 8月16日:兼民部卿[2]。12月3日:五畿内諸国別当[2]
- 寛平8年(896年) 7月16日:右大臣[2]
- 寛平9年(897年) 6月8日:薨去(右大臣正三位左近衛大将兼東宮傅)。6月16日:贈正二位[注釈 1]