左兵衛権佐を経て、後白河朝の保元2年(1157年)右近衛少将に任ぜられる。しかし、保元4年(1159年)六位蔵人・藤原尹頼との間で乱闘事件を起こし、少将を止められた。まもなく、左近衛少将に還任されるが、応保2年(1162年)父の修理大夫・源資賢が二条天皇に対する呪詛の嫌疑を受けて信濃国への流罪に処されるが、通家も連座して解官の上で伊豆国に配流されている。
長寛2年(1164年)配流先から召返されて、まもなく再び左近衛少将に還任される。仁安2年(1167年)正月に正四位下に叙せられるが、同年7月26日に頓死した。享年35。