藤原定能
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| 時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 久安4年(1148年) |
| 死没 | 承元3年8月22日(1209年9月22日) |
| 改名 | 定能→定阿(法名) |
| 別名 | 樋口大納言、二条大納言 |
| 官位 | 正二位、権大納言 |
| 主君 | 近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
| 氏族 | 藤原北家道綱流楊梅庶流 |
| 父母 | 父:藤原季行、母:藤原宗能の娘 |
| 兄弟 | 重季、定能、能季、定行、覚乗、玄李、兼子(九条兼実室) |
| 妻 | 源通家の娘、藤原顕憲の娘、源資賢の娘 |
| 子 | 親能、定季、資家、定玄、定乗、粟田口忠良室、坊門信清室、源定忠室、源兼忠室、大宮局、定観、斎院女房宣旨、殷富門院六条局、持明院家行室、順徳院女房大納言局 |
藤原 定能(ふじわら の さだよし)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家道綱流、藤原季行の次男。官位は正二位・権大納言。樋口または二条と号す。琵琶で名高い。
仁平2年(1152年)、従五位下に叙爵。右兵衛権佐、近衛少将・中将といった武官や、播磨国・加賀国・丹後国の権介といった地方官を歴任する。専ら後白河院の近臣として活動し、安元2年(1176年)には院の推挙により蔵人頭に任官する。これは位階上位にあった藤原雅長らを凌駕する異例の人事であり、定能と義兄弟の関係にあった右大臣・九条兼実(季行女兼子は兼実の妻、良通、良経などの母)さえも「希代」のことと評した[1]。治承3年(1179年)正月には参議に任ぜられて公卿に列すが、同年11月に発生した治承三年の政変の後、院近臣の一人として左近衛権中将の官職を解任されている。この間の、治承2年(1178年)には高倉天皇の石清水八幡宮及び賀茂神社への行幸において行事を務め、その功により治承5年(1181年)に従三位に叙せられている。
その後も寿永3年(1184年)に従二位・権中納言、文治5年(1189年)には正二位・中納言と順調に昇進する。建久5年(1195年)には権大納言に至り、道綱流では最も高位に昇った人物となった。建久9年(1198年)に子・資家の右近衛少将任官と引き替えに権大納言を辞職。建仁元年(1201年)に出家し、法名を定阿と称した[2]。承元3年(1209年)薨去、享年62[2]。
官歴
注釈のないものは『公卿補任』による。
| 和暦(西暦) | 月日(旧暦) | 年齢[注釈 1] | 事項 |
|---|---|---|---|
| 仁平2年(1152年) | 1月5日 | 5歳 | 叙爵(従五位下) |
| 保元2年(1157年) | 1月某日 | 10歳 | 右兵衛権佐 |
| 3月某日 | 丹後守 | ||
| 10月22日 | 従五位上 | ||
| 応保2年(1162年) | 2月25日 | 15歳 | 正五位下 |
| 長寛3年(1165年) | 1月2日 | 18歳 | 従四位下 |
| 永万2年(1166年) | 1月12日 | 19歳 | 従四位上 |
| 仁安2年(1167年) | 1月30日 | 20歳 | 播磨権介、正四位下 |
| 嘉応3年(1171年) | 1月18日 | 24歳 | 左近衛中将 |
| 承安2年(1172年) | 1月23日 | 25歳 | 加賀権介 |
| 安元2年(1176年) | 12月5日 | 29歳 | 蔵戸頭 |
| 治承3年(1179年) | 1月19日 | 32歳 | 参議 |
| 治承4年(1180年) | 11月28日 | 33歳 | 加賀権守 |
| 治承5年(1181年) | 1月5日 | 34歳 | 従三位 |
| 養和2年(1182年) | 3月8日 | 35歳 | 兼左近衛権中将 |
| 寿永2年(1183年) | 1月7日 | 36歳 | 正三位 |
| 元暦元年(1184年) | 9月18日 | 37歳 | 権中納言 |
| 文治3年(1187年) | 1月23日 | 40歳 | 従二位 |
| 文治5年(1189年) | 1月7日 | 42歳 | 正二位 |
| 7月10日 | 中納言、兼左衛門督 | ||
| 建久5年(1194年) | 1月30日 | 47歳 | 権大納言 |
| 建仁元年(1201年) | 2月21日 | 54歳 | 出家 |
| 承元3年(1209年) | 8月22日 | 62歳 | 薨去(享年62)[2] |