潘環
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経歴
潘景厚の子として生まれた。若くして行商人を生業とした。はじめ後梁の保義軍節度使の閻宝に仕えて、帳中親校となった。晋王李存勗が魏博を平定し、兵を移して邢州を攻めると、潘環は閻宝の命を受けて間道を通って開封府に伝えた。後梁の末帝に任用されて左堅鋭夾馬都虞候となり、左雄威軍指揮使に累進した。梁軍と晋軍が黄河で対陣すると、潘環は参戦するたびに、先頭に立って敵と戦い、刀傷を体じゅうに負った。このため李存勗に名を知られた[1]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が後梁を平定すると、潘環は禁軍をつかさどるよう命じられた。同光2年(924年)、李嗣源に従って契丹の侵入を防いだ。同光4年(926年)、鄴都の乱が起こると、潘環は李嗣源に従って洛陽に入った。天成元年(同年)、棣州刺史に任じられた。天成3年(928年)、義武軍節度使の王都が定州で反乱を起こし、朝廷がこれを攻めると、潘環は行営右廂歩軍都指揮使となった。天成4年(929年)、王都の乱が鎮圧されると、潘環は易州刺史・北面沿辺都部署に転じた。のちに慶州刺史に転じた。洛陽に召還され、宿州団練使に任じられた。清泰2年(935年)、耀州団練使となった[1]。
後晋の天福2年(937年)、潘環は范延光の乱の鎮圧に参加し、斉州防禦使に任じられた[1]。天福4年(939年)、金州に懐徳軍節度が置かれると、潘環は懐徳軍節度使となった[2]。天福7年(942年)、入朝して左神武軍統軍となった[3]。開運元年(944年)、契丹が侵入し、晋軍が北征すると、潘環は北面行営歩軍左廂排陣使となり、陽城で契丹を破るのに参与した[1]。開運2年(945年)、凱旋すると、澶州節度使に任じられ[4]、検校太傅に進んだ。開運3年(946年)、節度使を退任して開封府に帰った。まもなく洛京巡検となった。この年の冬、契丹の太宗が侵入し、劉晞が太宗の命を受けて洛京留守となると、潘環は洛京巡検の任を辞め、洛陽に閑居した。開運4年(947年)、孟州で軍乱が起こり、劉晞は許州に逃亡した。4月、遼(契丹)の将の高模翰が兵を率いて劉晞を助け洛陽に入ると、潘環が変を起こすのを憂慮して、潘環を殺害してその家財を奪取した。天福12年(同年)、後漢の高祖劉知遠が開封府に入ると、潘環は太尉の位を追贈された[1]。
潘環は6部2鎮を歴任し、いたるところで収奪をおこなった。宿州にいたとき、わずかな過失で牙将を鞭打った。牙校はある尼に頼んで潘環に白金2鋌を献金させた。尼が𨫼(餅釜)の脚に2枚の白金をつけて牙校の免責を求めると、潘環は「𨫼の脚は何本あるか」と訊ねた。尼は「3本脚です」と答えた。潘環はさらに「2本脚で𨫼を作ることができるか」と訊ねた。尼はそこで白金3鋌を献金した。このため潘環は当時に「潘𨫼脚」と号された[5]。