閻宝
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
若くして朱瑾に仕えて牙将となった。乾寧4年(897年)、朱瑾が兗州を失陥すると、閻宝は朱瑾の将の胡規や康懐英とともに朱全忠に帰順した。朱全忠の征戦に従軍して、葛従周・丁会・賀徳倫・李思安らとともに大将をつとめ、戦功を立てることが多かった。洺州刺史・随州刺史・宿州刺史・鄭州刺史を歴任した[1][2]。
天祐6年(909年)、閻宝は後梁の邢洺節度使・検校太傅となった。天祐12年(915年)に晋王李存勗が魏博を平定すると、天祐13年(916年)に相州・衛州・洺州・磁州を攻略し、閻宝は邢州を保つのみで、孤立に陥った。8月、閻宝は邢州ごと晋に降った。検校太尉・同平章事の位に進み、天平軍節度使を遥領し・東南面行営招討使となった。賓客の礼で待遇され、位は諸将の上にあり、軍機の策謀に参与した[3][2]。
天祐14年(917年)、契丹が幽州に進攻し、周徳威が危急を告げると、閻宝は李存審とともに李嗣源に従って契丹を幽州西北で攻撃し、幽州の包囲を解いて凱旋した。天祐15年(918年)、胡柳陂の戦いにおいて、梁軍は無石山に陣を置いて意気盛んであり、李存勗はこれを見て敗北を恐れ、自陣を守ろうとしていた。閻宝はあえて攻勢を進言した。李存勗は閻宝の計を聞き入れ、槊を奮って無石山を登り、梁軍を破った[4][2]。
天祐18年(921年)、張文礼が王鎔を殺害して叛くと、閻宝は軍を率いて討伐にあたった。8月、趙州を奪回し、滹水を渡って進軍すると、反乱側の張友順を捕らえた。9月、進軍して真定県に迫り、西南隅に陣営を張った。塹壕を掘って柵を巡らし、大悲寺の漕渠を決壊させて真定県の城郭に浸水させた。天祐19年(922年)1月、契丹の30万の軍が真定県に来援し、その先鋒が新楽県にいたると、晋軍の士気は低下した。閻宝が李存勗に会い、軍の方略を示すと、晋軍の士気は安定した。契丹軍が撤退すると、閻宝は検校侍中を加えられた。3月、真定県の城中が飢え、王処瑾の兵が食を求めて城を出ると、閻宝は伏兵を置いて撃破した。飢えた反乱兵が大挙してやってきて、閻宝は軍を集結しないところを襲われ、敗北した。閻宝は軍を収容して趙州に退却した。憂憤のうちに病を発し、背中に腫瘍ができて死去した。享年は60。同光元年(923年)、太師の位を追贈された。後晋の天福年間、太原郡王に追封された[4][2]。