潮音道海

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潮音道海(友学康倫・筆)

潮音道海(ちょうおん どうかい、1628年11月10日 - 1695年8月24日)は、日本の禅僧(江戸時代前期)。黄檗宗木庵に師事し、のちに黄檗宗黒瀧派(緑樹派)の派祖となる。黒瀧山不動寺、中興の祖。別名、黒瀧潮音。号は、南牧樵夫。神道への関心が深く、大成経の出版にかかわった。

黄檗山

(おもに『黒瀧潮音和尚年譜』による)

寛永5年(1628)、肥前(佐賀県)小城郡に生まれる。父は楠田氏、母は前田氏。5歳のとき母を亡くし、祖母に育てられる。9歳で読み書きを習いはじめ、13歳で出家。

正保1年(1644)、17歳。密かに寺を出る。筑後で一冬過ごしたのち、正保2年、商船に乗って京都に出る。広く儒典を学ぶ。大阪で「大慧書」を学び、越前で「六祖壇経」を聴く。仏教界の現状を嘆き、中国元時代の僧・中峰明本の遺風を慕う。

正保3年(1646)、19歳。中峰の流れをくむ一糸文守に会いに、近江(滋賀県)の瑞石山永源寺を訪れる。しかし、一糸はすでに亡くなっており、後継の如雪文巖[1] に師事する。「実参実悟」という、坐禅に徹した修行をはじめる。慶安4年(1651)、24歳。夏、七日間不眠の坐禅行をおこない、疑念が晴れたという。

承応3年(1654)、27歳。10年ぶりに帰郷。隠元が来日すると、長崎の興福寺で謁するが、認められず、不遜な言葉を残して永源寺に戻る。[2]

万治2年(1658)、32歳。京都洛北、賀茂の「定林庵」で仲間と修業をはじめる。梅嶺道雪[3]も参加。賀茂神社に参り、神道に関心を持つようになる[4]。万治3年(1659)、33歳。最初の著書『観音感通伝』を全国66ヶ所の観音霊場に納める。美濃(岐阜県)の萬亀山臨川寺で、はじめて住持となる。鎮守として賀茂神社を勧請する。翌年、近くの大慈山小松寺の復興を請われ、弟子の道林[5] を派遣する。

寛文1年(1660)、34歳。禅宗の史伝書『五燈巖統』を読んで隠元の真価を悟り、前非を悔いて黄檗山に登る。独湛性瑩のとりなしで参堂を許される。木庵即非らの指導を受ける。寛文2年、伊勢神宮に参詣[6] 。寛文3年、隠元から法名「潮音道海」を拝受。寛文4年、「知客」に任じられる。

寛文5年(1665)、38歳。黄檗山の二代目となった木庵が将軍に挨拶するため、江戸に出る。潮音はそれに随行。諸侯と交流し、池田秀峰、黒田泰岳[7] の帰依を受ける。寛文6年、江戸「大慈庵」[8] に迎えられる。栄三尼が参る。土井大炊頭夫人(緑樹院夫人)[9] に求められ『霧海南針』を著す。

寛文7年(1667)、40歳。上州(群馬県)の眞福山宝林寺[10] に進山し、再建する。館林藩城代・金田正勝は、潮音を招いて法苑を開く。寛文9年(1669)、黒田、金田らは藩主綱吉に進言し、館林城の西に「万徳山広済寺」を建立[11]。木庵を開山、潮音を第二代として招請する。

寛文10年(1670)、43歳。『聖徳太子十七条憲法註』を板行[12]。 寛文11年、青木瑞山が江戸白金に紫雲山瑞聖寺を建立。潮音は西堂を務める。木庵から印可を受ける。寛文12年、緑樹院夫人が23歳で没す。

延宝1年(1673)、46歳。隠元が死去。潮音は黄檗山に登り、喪に服す。その帰途、黒滝山の岩窟で修行していた「高源」が弟子になる。延宝2年、大慈庵が深川に移転。鍋島綱茂[13]が姉の供養のため、「緑樹院」という塔頭を黄檗山内に建てる。[14]

大成経の出版

延宝3年(1675)、48歳。潮音の『十七条憲法註』をみた「池田逸士」から、『聖徳太子釈氏憲法』[15]のことを教えられる。ついで、「京極氏」から『太子旧事本紀』(大成経)のことを聞き、その中に『憲法本紀』があることを知る。『大成経』正部四十巻を借りて読む。その後、「長野氏」から『大成経』の正部雑部七十二巻を借りて書写する[16]。『神教経』『宗徳経』『聖皇本紀』『憲法本紀』を板行。

8月、高源が、黒瀧山に潮音を迎え、説法の会を開く。三千人集まる。黒瀧山の開山に招請される。このころ、浅間山の噴火で人々が苦しんでいることを聞き、仏像を安置して住民を救いたいと発心する。延宝4年(1676)、49歳。春、館林城で「憲法本紀」を講ず。城中に井戸が湧き出て「青龍権現」が現れたという。浅間山で普賢堂の跡が見つかる[17]。普賢菩薩の銅像を鋳造[18]

延宝5年(1677)、50歳。普賢菩薩の開眼法要などをおこなう。衆を率いて浅間山の山頂に登り、施食文を誦んで祈願する。その後、黒瀧山に登り開眼法要をおこなう。故郷の師、泰雲が死去。供養のため弟の月浦[19] を遣す。法華経を血書する。延宝6年(1678)、江戸神田の邸で綱吉に謁見し、『万徳開堂録』を呈す[20]。『坐禅論』を著す。

延宝7年(1679)、52歳。「村上氏」に請われ、潮音が所持する『大成経』正部(四十巻)を刊行する[21]。隠元の7回忌のため黄檗山に向かう。帰路、熱田神宮に参る。延宝8年(1680)、53歳。2月、再び、黄檗山に向かう。帰路、「伊勢三宮二社」に参る[22]。8月、綱吉が第五代将軍になる。桂昌院から潮音へ「金帛」が贈られる。9月、『大成経破文』という批判文書が出る。[23]

天和2年(1682)、55歳。冬十月、伊勢神宮の神官が「大成経を忌み嫌い」、官府に訴える。寺社奉行は出版者をとらえ、版木を滅する。本多城司はこれを告げ、潮音は門を鎖し蟄居する[24]。 蟄居中、『大成経破文答釈篇』を書き、反論する。12月、開門。

天和3年(1683)、56歳。木庵が病気だというので、江戸に来ていた独湛とともに黄檗山に向かう。木庵は恢復する。帰路、住吉神社、太子廟、大神神社などをまわる。

5月、綱吉の長男・徳松が、5歳で死去[25] 。6月、館林城の取り壊しが決まる。重臣たちは江戸に移動。潮音は広済寺を辞すことを望む[26]。 はじめ、補陀山大円寺[27] に入るつもりだったが、高源らに請われて、7月、黒瀧山不動寺に入る。三年間の禁足を宣言する。

黒瀧山

貞享1年(1684)、57歳。1月、木庵が亡くなったため、禁足を破り、黄檗山に登る。77日間喪に服し、4月、黒瀧へ帰る。「南牧樵夫」と号す。貞享2年(1685)、58歳。陳玄興に自分の肖像画を描かせ「七師七友」と題す。鍋島元武(金栗)が、小城に祥光山星巌寺[28]を創建する。潮音は開山となる。浅間山普賢寺に祖堂を建てる。

『七師七友図』(陳玄興・筆)1685 黒瀧山不動寺 群馬県指定重要文化財

貞享3年(1686)、59歳。信州に向かい、ゆかりのある寺を巡回する。善光寺戸隠神社をまわる。普賢寺の祝国開堂をおこなう。黒瀧山に「六社明神」を総鎮守として勧請[29]。江戸から80歳の栄三尼がやってくる。

貞享4年(1687)、60歳。将軍綱吉が漁猟を禁じたことを喜ぶ。林羅山の書を読んで異議があり、『扶桑護仏神論』を著す。60歳を祝うため弟子が集まる。綱吉42歳の厄を祓う。元禄1年(1688)、61歳。黒瀧山の岩窟に弁財天の石像を建立。熊沢蕃山の書をみて『催邪論』を著す。元禄2年、栄三尼が大蔵経を納める。

元禄3年(1690)、63歳。法歴50年を記念して「寿塔」が建てられる。僧梅堂に訴えられ寺社奉行に出頭[30]。元禄4年、黄檗山四代目の独湛に、代付、返法、官訴について意見書を送る。亀田祖厳が梵鐘を喜捨。「黒瀧一派禁約」を作成。元禄5年、黒瀧山で授戒会をおこない、千人以上が集まる。祝国開堂をおこなう。

元禄6年(1693)、66歳。「黒瀧宗派簿」を作成。末寺200余りの「黒瀧派」結成。大仏殿(大雄宝殿)を建てはじめる。元禄7年(1694)、67歳。大仏殿が落成。年末、潮音は体調を崩す。

元禄8年(1695)。1月、隠元23回忌のため、黄檗山に向かう。「末期の行脚」と述べる。3月、「伊勢三宮」に参る。庄野宿で、参勤交代中の鍋島元武に会う。黄檗山からの帰路、伊吹山松尾寺を開山。竹生島弁財天に参る。

6月、美濃の萬亀山臨川寺に到着。堂の改築を許し、しばらく逗留。7月、大慈山小松寺を訪れる。8月、旧病が再発。手足が動かず遺偈を代筆させる。68歳で死去。遺骨は分骨され、臨川寺と黒瀧山に納められた。開山した寺は20余り、門人63人、受戒10余万人。

逸話

  • 『葉隠』巻八に、鍋島綱茂のお目付け役だった山本五郎左衛門が、潮音に談判にいく話がある。綱茂に印可を与えないよう求めた。[31]
  • 江戸名所図会』巻四の「護国寺」の項に、本尊・如意輪観世音(瑪瑙製)は、潮音から桂昌院に贈られたものという記述がある。[32]
  • 天和2年12月28日、「大慈庵」は天和の大火(お七火事)で焼失し、再建された。正徳2年(1712)、寺号が許されて「万徳山広済寺」に改める。[33]
  • 幼い徳松に側近として仕えていたのが、若き日の黒田直邦(16~18歳)。直邦はのちに「大成経」の信奉者となる[34]。黒瀧山には徳松の位牌も安置されている[35]
  • 館林の広済寺は天和3年(1683)に廃寺となり、梵鐘や仏像などは「宝林寺」に移された。その後本尊のみが「大慈庵」に移され、宝林寺には新しい本尊が作られた。[36]
  • 古田紹欽は、黒瀧派の思想を、「明代仏教の一斑を伝えた黄檗禅の特異性に加えて、殆んどの仏教教説を禅に融合し、更に神儒仏三教の一致観にたち、殊に神道を重視して神仏習合を唱えた独自な思想」、とする。[37]

伝記資料

著書

  • 『指月夜話』7巻
  • 『潮音禅師語録』6巻(刊本2冊)
  • 『潮音禅師語録』42巻(写本)
  • 『観音感通伝』[39]
  • 『霧海南針』[40]
  • 『十七条憲法註』[41]
  • 『坐禅論』[42]
  • 『聖徳太子五憲法事実』[43]
  • 『大成経破文答釈篇』[44]
  • 『五瀬三宮二社鎮座本紀』[45]
  • 『聖胎長養禄』[46]
  • 『辨財天三経略疏』[47]
  • 『扶桑護仏神論』[48]
  • 『摧邪論』
  • 『扶桑三道権輿録』[49]
  • 『信心銘要』
  • 『松尾寺記』
  • 『南牧山居詩』
  • 『南牧樵夫百吟集』

参考文献

  • 『緑樹』正満秀利 、潮音禅師三百年遠諱大法会記念誌、平成6年。(「黄檗の傑僧 潮音道海禅師」「派祖潮音禅師を探して」「著書解題」「法系図」、「霧海の南針」「坐禅論」「南牧潮音禅師山居詩集」「南牧樵夫百吟集」など)。1994。
  • 『関東の仙境・黒瀧山:不動寺と南牧村を歩く』あさを社、1994年4月。(長岡良圓、正満英利、永岡利一、里見哲夫、市川太平)
  • 『黄檗文化人名辞典』大槻幹郎・加藤正俊・林雪光、思文閣出版、1988年。
  • 『初期黄檗派の僧たち』木村得玄、春秋社、2007年。
  • 森田康之助「旧事大成経をめぐる問題」(『悠久』4巻1号、1952年5月)[50]
  • 河野省三『旧事大成経に関する研究』、芸苑社、昭和27年11月、(「四、大成経の著作者と祖述者」)1952。[51]
  • 久保田収「「旧事大成経」成立に関する一考察」(『皇学館大学紀要』6号)1968。[52]
  • 荻須純道「潮音道海について」(『龍谷史壇』第66・67号、昭和48年12月)1973。
  • 岩田貞雄「皇大神宮別宮伊雑宮謀計事件の真相--偽書成立の原由について」 (『国学院大学日本文化研究所紀要』33号)1974年3月。「第4章4節 僧潮音について」。
  • 江口正尊「潮音禅師と仏師康祐」(『史迹と美術』571号)1987年1月[53]
  • 小笠原春夫「黒滝潮音の年譜を廻る一考察」(『神道宗教』147号、平成4年6月)1992。[54]
  • 『群馬県史・通史編 6』p.653。1992。[55]
  • 古田紹欽著作集 第2巻 (禅宗史研究)』講談社、1981。(「潮音道海の臨済・曹洞禅批判」「潮音道海の黒瀧門派について」「潮音道海の座禅論」「潮音道海の神道思想」「徳翁良高における宗教改革思想の淵源:黄檗潮音道海との関係」)[56]
  • 『黄檗僧と鍋島家の人々:小城の潮音・梅嶺の活躍』井上敏幸 編著、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2008年。(「佐賀県と黄檗宗」「小城の黄檗僧―潮音と梅嶺─」「大成経破文答釈ノ釈答」「潮音を囲む人々と「五憲法」及び「五憲法かな書」」など)展覧会の図録。
  • 『書物の時代の宗教』岸本覚・曽根原理 編、勉誠社、2023年。(Ⅱ『大成経』と秘伝の世界:「禅僧たちの『大成経』受容」佐藤俊晃、「『大成経』の灌伝書・秘伝書の構造とその背景―潮音道海から、依田貞鎮(徧無為)・平繁仲を経て、東嶺円慈への灌伝伝受の過程に」M. M. E. バウンステルス、「増穂残口と『先代旧事本紀大成経』」湯浅佳子、「『大成経』研究のすゝめ」W. J. ボート)
  • 『黄檗僧 光鑑元如』野村武男、戎光祥出版、2023年。(光鑑は潮音晩年の弟子)
  • 『近世の在村文化と書物出版』杉 仁、吉川弘文館、2009年。(「西上州谷「市川氏」と日野衆「小柏氏」の土着と開発と信仰」、1.南牧衆市川氏の開発と経営と黄檗宗 2.日野衆小柏氏の地域支配と黄檗信仰 3.潮音道海の漢詩集出版と地域の在村文化)、p23-42。
  • 『隠元と黄檗宗の歴史』竹貫元勝、法蔵館、2020年。


「大成経事件」史料

脚注

外部リンク

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